SSブログ

72-5.神功皇后が実在した証拠は「寐錦(むきん)」 [72.『古事記』と『日本書紀』の編年を合体]

『古事記』『日本書紀』に記載された天皇の中で、歴史・考古学者がその存在を全く信用していない天皇は、神武天皇と神功皇后であるといっても過言ではない。『書紀』は、神功皇后が新羅の国に攻め込んで、新羅が降伏した時の様子を「新羅王波沙寐錦(はさむきん)、微叱己知波珍干岐(みしこちはとりかんき)を人質とし、金・銀・彩色・綾・絹を沢山の船にのせて、軍船に従わせた」と書いている。

 

日本および東洋の思想史研究に大きな業績を残し、文化勲章を受ておられる津田左右吉氏は、『書紀』の「新羅王波沙寐錦」について、「新羅王波沙寐錦は、王として三国史記などに見えない名である。『波沙寐』は多分新羅の爵位の第4級『波珍』の転訛で、『錦』は尊称ではなかろうか。もしそうとすれば、これは後人の付会であって、本来王の名として聞こえていたのでは無い。・・中略・・この名およびこの名によって語られている人質の派遣と朝貢との話は後に加えられたものであることが、文章の上から、明らかに知られるようである」と述べており、神功皇后の新羅征伐はもちろんのこと、神功皇后の実在を否定されておられる。

 

4世紀末から5世紀の朝鮮半島の三国(高句麗・百済・新羅)ならびに倭との関係を記した有名な広開土王碑(好太王碑)がある。この石碑の第3面の2行目には「新羅寐錦」の刻字がある。ただ、「新羅寐錦」と読まれたのは近年のことで、それまでは「新羅安錦」と読まれていた。

 

Z442.中原高句麗碑.png「寐錦」が新羅王を表すということを歴史学者(日本・韓国・中国)が知ったのは、1978年に韓国の忠清北道忠州市(ソウル南東100km)で発見された中原高句麗碑からである。 碑は、高さ2m、幅0.55mの石柱の四面に刻字があり、5世紀前半の高句麗の碑石であることが判明した。この碑文の中に「新羅寐錦」の文字がある。「高麗太王」と「新羅寐錦」の関係は「如兄如弟」とあり、新羅寐錦は新羅王を指していることが分る。1988年に慶尚北道蔚珍郡竹辺面で石碑が発見され、蔚珍鳳坪碑と名付けられ国宝となった。この碑は新羅の法興王11年(523年)に建立されたもので、新羅が高句麗から奪回した領地に「寐錦」の視察があったことが刻字されている。

 

『日本書紀』の神功紀には「新羅王波沙寐錦」とあり、広開土王碑・中原高句麗碑・蔚珍鳳坪碑に刻字された「寐錦」という文字が、新羅王を表わす君主号であることと一致している。「寐錦」と言う言葉は、史実の伝承として後世に残らなかった言葉であり、決して後世の人が付け加え出来る言葉ではない。『書紀』は津田氏や歴史学者より、「寐錦」の言葉を正確に伝えており、神功皇后が実在し、新羅征伐が史実であった証拠であると考える。

 

『古事記』にも、神功皇后の新羅征伐を行ったこと、そのときお腹の中には応神天皇が宿っていたこと、お腹の御子が産まれないようにと石を腰に付けたこと、その石が筑紫の伊斗村にあることなど『書紀』とストーリーは同じである。『古事記』の崩御干支から導く編年には、『書紀』の神功皇后の全ての記事(『魏志』『百済記』等も引用記事を除いて)を収められなければならないと思う。

 

『書紀』の記事には、誇張があったり、勝負・正悪・清濁・譲奪が反対であったり、時代考証なしで後世の言葉を使っていたりする。また編年においても、記事と記事の間の空白の期間で歴史を延長し、『魏志倭人伝』や『百済記』などから引用挿入して、その延長された歴史があたかも正確であるように見せかけている。だからといって、史料批判という名のもとに全て排除したのでは我が国の歴史は姿を現さないと考える。神武天皇についても『古事記』と『書紀』のストーリーは大筋同じである。神武天皇は創作された人物とせず、歴史の編年を行ってみる。


nice!(2)  コメント(0) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。