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72-3. 『古事記』の天皇年齢は2倍暦ではない [72.『古事記』と『日本書紀』の編年を合体]

10代崇神天皇から21代雄略天皇の12名の天皇についてみると、『古事記』は崩御干支については9名の天皇の記載があるだけだが、崩御の年齢については全員の記載がある。『古事記』の編年解読に、年齢を活用すればよいと思われるが、12名の内うち5名が100歳以上であり、編年の情報としては信頼することが出来ない。

 

魏志倭人伝に倭人の年齢は「百歳あるいは八、九十歳」とあり、文末注に「魏略曰く、その俗、正歳四節を知らず。ただ春耕秋収を計って年紀と為す。」の記述があることから、記紀の天皇の年齢は1年で2歳年をとると二倍年暦で計算した結果であるとの説がある。『古事記』の天皇の年齢は2倍年暦で換算されているか、天皇誕生時の父(前天皇)の年齢と即位の年齢を指標に検証した。何故、この二つの指標にしたかというと、前天皇との系譜が親子関係であるときは、「即位年齢=皇子年齢+1=前天皇年齢―誕生時父年齢+1」が成り立ち、即位年齢と誕生時父年齢は相反の関係があり、答えが絞られてくるからである。また、特別の事情が無い限り誕生時父年齢と即位年齢は18歳~60歳の範囲にあると判定基準が想定できるためである。

 

Z439.2倍年暦.png

表Z439にその結果を示す。表の中で黄色は『古事記』崩御干支の通説と変更したところで、応神天皇から安康天皇までは前章で示したように倭の五王の年代とピッタリ一致しているプラス5年を採用した。垂仁天皇と景行天皇の崩御西暦は、私の推定値である。誕生時父年齢で見ると、応神天皇・履中天皇・安康天皇・雄略天皇が15歳以下であり、特に応神天皇の値はマイナスのあり得ない値である。また、即位年齢では仁徳天皇が10歳で異常値が出ている。これらより、『古事記』記載の天皇の年齢は二倍年暦で換算されたものでないことが分る。


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72-4. 崇神天皇の崩御干支の戊寅は318年か! [72.『古事記』と『日本書紀』の編年を合体]

崇神天皇の崩御干支の戊寅は、通説では318年に比定されており、多くの歴史・考古学者がそれを支持している。しかし、258年という異説もあり、318年で問題ないか検証した。崇神天皇の崩御干支の戊寅を318年とした場合、誕生時父年齢と即位年齢が18歳~60歳の範囲を満足させる天皇の年齢が存在するかを調べたのがZ440の「記通説+5年表」である。表の編年の欄にある修崩御年齢は、崩御年齢から延長年齢を引いたものである。

 

Z440.崇神崩御318年.png

全ての天皇において、誕生時父年齢と即位年齢が18歳~60歳の範囲を満足させる天皇の年齢が存在した。仲哀天皇の誕生時父年齢が15歳であるが、仲哀天皇は成務天皇の異母兄倭建命(日本武尊)の息子であり、倭建命が成務天皇より3歳程度年上ならば問題ない。応神天皇の即位が4歳になっている。仲哀天皇が筑紫で崩御され、神功皇后が新羅征伐した後に、応神天皇が筑紫で生まれている。その後神功皇后が大和に帰り摂政になっており、応神天皇の即位が4歳は問題はない。

 

Z441. 書紀記事年数.png崇神天皇の崩御干支の戊寅を318年に比定した場合、誕生時父年齢と即位年齢に問題を起こさない最適年齢が設定できた。しかし、私には気になることがある。それは垂仁天皇と景行天皇の在位が17年・15年と『日本書紀』の記事年数より少ないことだ。崇神天皇から雄略天皇までの、古事記の編年「記通説+5年表」の在位年数と『書紀』の記事年数(記事が記載されている年数)と空白年数(記事が書かれていない年数)の関係をZ441に示した。ただし、記事年数には魏志倭人伝・百済記・百済新撰・百済本記などの引用記事やそれに付帯してある記事は省いている。

 

「72-.『古事記』の編年と倭の五王」で示したように、応神天皇から安康天皇の崩御の年に5年プラスすれば、『宋書』倭国伝と帝紀に記載された倭の五王は、讚は仁徳天皇、珍は反正天皇、済は允恭天皇、興は安康天皇、武は雄略天皇の年代がピッタリ一致した。これら5名の天皇については全て古事記の編年に記事が収まる。履中紀のマイナス1年は許容の範囲内であろう。応神紀の場合は神功紀の記事を含めても応神記の編年内に収まる。これらに比較して垂仁紀のマイナス5年、景行紀のマイナス11年は異常である。成務紀のマイナス2年は両天皇の影響を受けたものであろう。垂仁紀では、記事年数が22年、空白年数が77年である。景行紀では、記事年数26年、空白年数34年である。『古事記』の編年において、崇神天皇の崩御を318年に比定した場合、垂仁記には『書紀』の垂仁紀の5年分の記事が収まらず、景行記には景行紀の11年分の記事が収まらない。

 

『古事記』の景行記と『書紀』の景行紀を対比すると、景行天皇とその息子の倭建命(日本武尊)(やまとたけるのみこと)の行動に大きな違いがある。古事記では、倭建命が熊襲征伐・出雲建討伐・東国征伐を行っている。『書紀』では、景行天皇自身が日向国に赴き襲国を平定し、筑紫の国を巡幸している。そして、帰京後に熊襲が再び背いたので、日本武尊を熊襲征伐に派遣し、その後に東国征伐に向かわしている。倭建命が出雲討伐した話は、『書紀』には記載されてなく、景行天皇が九州遠征した話は、古事記には記載されていない。

 

しかし、『古事記』と『書紀』が示す我が国の歴史は大筋では同じでり、『書紀』の記事の根底には史実があると確信する。だからこそ『古事記』の崩御干支から導く編年には、『書紀』の記事の全てを包含できなければならないと思う。その意味において、垂仁紀と景行紀の記事の書かれた年が、『古事記』の崩御干支から導く編年に収まらないのは、編年が違っていると思わざるを得ない。崇神天皇の崩御干支の戊寅は318年ではないと考える。


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