SSブログ

71-5.聖徳太子薨日は『法王帝説』に軍配 [71.聖徳太子を解けば仏教伝来の年が分かる]

Z433.法隆寺釈迦三尊像.png『書紀』は、聖徳太子の薨日を推古29年(辛巳:621年)2月5日としている。しかし、平安初期に成立した『法王帝説』と『補闕記』は推古30年(壬午:622年)2月22日となっており、『書紀』と1年違っている。『法王帝説』は法隆寺の釈迦三尊像光背銘、中宮寺の天寿国繍帳銘にある聖徳太子の薨日と同じである。また、『法隆寺東院縁起』には、天平8年(736年)2月22日の聖徳太子の忌日に、太子のために法隆寺で法華経講会がはじめて開催していることより、聖徳太子の薨日は推古30年(622年)2月22日が定説化している。

 

『書紀』推古29年2月5日の聖徳太子の薨去の記事の後に、「この時、既に高麗に帰国していた恵慈が、上宮皇太子が薨じたことを聞き、僧を集め斎会を設け、経を説き請願した。『・・・(聖徳太子賛美の美辞麗句)・・・我は来年の2月5日に必ず死に、浄土に於いて上宮太子とお会いして、共に多くの人に仏の教えを広めよう。』と言った。そして、恵慈はその期日通りに亡くなったので、人々は『上宮太子だけでなく、恵慈もまた聖である。』と言った。」と記載されている。なお、この話は『法王帝説』『補闕記』にもあり、両者共に美辞麗句の部分を除き「来年の2月22日に必ず死に、浄土に於いて上宮太子とお会いする」となっている。恵慈が聖徳太子と前後して亡くなったのは史実であろう。

 

『書紀』推古33年1月に、高麗王が僧恵灌をたてまつったので僧上に任じたとある。僧恵灌が来日した時、上宮豊聡耳皇子が薨去されたと知り、「僧恵慈も上宮太子が薨去された1年前の2月5日にお亡くなりになっております。お二人はきっと浄土に於いてお会いしているでしょう。」と言ったことが、「恵慈が聖徳太子を追慕して、来年の太子の命日に必ず死に、浄土に於いて上宮太子とお会いする」との説話が生まれたと考える。推古29年(辛巳:621年)2月5日に亡くなったのは恵慈と推察する。

 

『書紀』編纂者により、聖徳太子の薨日と僧恵慈の命日のすり替えが行われ、聖徳太子の薨日を推古29年2月5日とし、恵慈が聖徳太子を追慕して「来年の2月5日に必ず死に、浄土に於いて上宮太子とお会いする」という文言が作りだされ、史実を物語化して偉大なる聖人としての聖徳太子を演出したと思える。聖徳太子の薨日は、『法王帝説』『補闕記』、法隆寺の釈迦三尊像光背銘、中宮寺の天寿国繍帳銘にある推古30年(壬午:622年)2月22日が史実だと考える。


nice!(2)  コメント(0) 

71-6.仏教伝来の年は『日本書紀』に軍配 [71.聖徳太子を解けば仏教伝来の年が分かる]

聖徳太子は用明天皇と穴穂部間人皇后の長男として生まれた。聖徳太子は後世の尊称で『古事記』『日本書紀』ともに上宮厩戸豊聡耳皇子(厩戸皇子)としている。宮殿の南の上宮(桜井市上之宮)に住まわれたこと、間人皇后が厩の戸にあたられた拍子に難なく出産されたこと、一度に十人の訴えを聞かれても誤らなかったことから来ている。

 

『法王帝説』は聖徳太子の誕生については、初めの方で「池邊天皇の皇后、穴太部間人王、厩戸に出でし時に、忽ちに上宮王産れます。」とあるが、ここには生年の干支は記していない。『法王帝説』は最後の行に「上宮聖徳法王、又は法主王と云す。甲午の年に産まれし、壬午の年の二月廿二に薨逝しぬ。」と聖徳太子の生年と薨年を記している。生年も薨逝も「午」の年である。生年干支が何故最後に書かれてあるのか作為を感じる。

 

『書紀』には厩戸皇子の生年については記載がないが、蘇我馬子が用明2年(587年)に物部守屋を滅ぼした戦に、束髪於額(ひさごはな:十五、六歳の小年の髪型)の厩戸皇子が加勢したと記載している。これからすると、厩戸皇子の誕生は572年前後となるが、574年が甲午の年となり、『法王帝説』の生年干支に齟齬は起こらない。

 

Z434.法隆寺薬師如来像.png『法王帝説』には法隆寺の金堂に座す薬師像の光背銘、「池邊大宮治天下天皇(用明天皇)が病気になり、丙午年(586年)に大王天皇(推古天皇)と太子を召し、病気平癒のために薬師像を請願したが、そのまま亡くなってしまった。そこで、大王天皇と東宮聖王(聖徳太子)が丁卯年(607年)になってこれを完成した。」を掲載している。ここにも丙午の年と「午」が登場している。

 

『法王帝説』には「戊午の年の四月十五日、小治田天皇(推古天皇)、上宮王(聖徳太子)に請いて勝鬘経を講ぜしむ。その儀は僧の如し。」とあり、聖徳太子が勝鬘経を講話した年を戊午(598年)の「午」の年としている。『法王帝説』には「志癸嶋天皇(欽明天皇)の御世、戊午の年10月12日、百済国の主明王(聖明王)、始めて渡りきて仏像・経典、併せて僧等を奉る。」とあり、仏教伝来を戊午(538年)と「午」の年としている。

聖徳太子薨逝 勝鬘経講話 薬師像請願 聖徳太子誕生 仏教伝来

   壬午     戊午    丙午    甲午    戊午

  622年   598年  586年  574年  538年

 

聖徳太子薨逝・勝鬘経講話・薬師像請願・聖徳太子誕生・仏教伝来の全てが「午」の年である。干支では「午」の年は12年ごとに訪れるが、あまりにも出来すぎた「午」の年である。これらの「午」は、聖徳太子が厩戸皇子と呼ばれていたこと、薨逝した年が壬午であったこと、父の用明天皇が病気平癒を願って薬師像請願したのが 丙午の年であったことから、『法王帝説』は聖徳太子の誕生を甲午と推定し、勝鬘経講話の戊午の年と、仏教伝来の戊午を創作したのだと考える。仏教伝来は、欽明13年(壬申:552年)10月に、百済の聖明王が仏像と経論を献じたと記載している『書紀』に軍配を挙げる。


nice!(2)  コメント(0) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。