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70-2. 『翰苑』は粟田真人が大宰府に寄贈 [70.新元号「令和」の深層]

Z426.翰苑.png『翰苑(かんえん)』とは、唐の時代の顕慶5年(660年)頃に張楚金によって書かれた類書である。類書とは、各種の書籍より資料を集め、分類順または韻順に編集し、検索の便をはかった参考図書のことで、一種の百科事典のようなものだ。『翰苑』は中国では早く散失したが、我が国の太宰府天満宮に第30巻の蕃夷部(匈奴・烏桓・鮮卑・倭国・西域)が残っており、現在国宝となっている。

 

『翰苑』が張楚金により編纂されたのが、唐の時代の顕慶5年(660年)頃である。大伴旅人が「梅花の宴」を大宰府で開いたのが天平2年(730年)である。このことからすると、『翰苑』が中国から大宰府にもたらされたのは660年から730年の間で、遣唐使の船ということになる。この間で書物等を持ち帰り出来た可能性があるのは、天智6年(667年)・慶雲元年(704年)・養老2年(718年)の3回の帰国船であると考える。私は、粟田真人が執節使となり大宝2年(702年)6月に出国し、慶雲元年(704年)7月に五島列島福江島に漂着帰国した遣唐使であると考えている。

 

『宋史』日本伝には「粟田真人を遣わし、唐に入り書籍を求めしめ」とあり、粟田真人が『翰苑』の全巻を我国に持ち帰り、太宰府に寄贈したと思われる。粟田真人は唐から帰国した4年後の和銅元年(708年)3月から、霊亀元年(715年)6月頃まで筑紫大宰師として大宰府に在任しており、その時に『翰苑』を太宰府に持ち込んだのかも知れない。粟田真人の遣唐使には山上憶良も乗船しており、山上憶良が『翰苑』に書かれている「蘭亭序」を、大伴旅人に教えたとも考えられる。


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70-3「梅花の宴」のヒントは『翰苑』から得た [70.新元号「令和」の深層]

「梅花の宴序」の背景には、書聖と称された中国東晋の王羲之の「蘭亭序」がある事が昔から指摘されている。唐の太宗(626~649年)は、王羲之の書をこよなく愛し、部下に命じて王羲之の書を収集した。特に「蘭亭序」に対する執着はすさまじく、自ら陵墓に副葬品として入れさせたと言われている。これらからすると、『翰苑』に王羲之の「蘭亭序」が掲載されていたと考えることが出来る。「蘭亭序」は王羲之が催した「曲水の宴」で詠われた詩をまとめたものが「序」として記されており、この始めの部分の意訳を下記に示す。

 Z427.蘭亭曲水図.png

「永和九年(353年)癸丑の歳の3月初め、會稽山のかたわらの蘭亭において、禊ごとをおこなった。多くの賢者たちがやって来て、若い人から年長者まで皆集まった。この地には、高い山や険しい嶺、生い茂った林や竹林があり、また清流や激しい早瀬があって、景観があたりに映り合っている。この流れを引いてきて盃を流す曲水をつくり、その縁に並んで座った。

 

琴や笛、楽器の賑わいこそ無いが、盃を含み、詩を作るという趣は、深い自然の情感を述べるには十分である。この日は、空は晴れわたり、大気も澄みきって、心地よい風が、おだやかに吹いている。空を仰いでは宇宙の大きさを感じ、下を眺めれば盛んに活動しているものが目に入る。これらは目を楽しませ、思いを果てし無く想像させ、耳目の楽しみの極まるところである。まことに楽しく愉快である。・・・・・」

 

大伴旅人はこの「蘭亭序」を読み、「梅花の宴」を催したと思える。「梅花の宴序」の「もし翰苑にあらずは、何をもちてか情を述べむ。詩に落梅の篇を紀す、古今それ何ぞ異ならむ。よろしく園梅を賦して、いささかに短詠を成すべし。」の文章を、「もし『翰苑』を読むことがなかったら、このような詩会を催すことはなかったであろう。『翰苑』の落梅の篇には漢詩が載っている。梅の花を見て詠む詩は、古今東西異なるものではない。庭園に咲き誇る梅を眺めながら、しばらくの間和歌を詠んでみよう。」と解釈した。大伴旅人は遣唐使が持ち帰る唐の文化に敬服しつつも、自分が営む、自然を愛で心情を詠う、詩の世界においては、唐の文化に負けるものではないとの想いから、「梅花の宴序」を書いたと思われる。

 

花見の起源は、奈良時代の貴族の行事だと言われている。奈良時代の花見で鑑賞されたのは、中国から伝来したばかりの梅であり、平安時代になってから、それが桜に変わっている。『万葉集』(783年成立)では桜を詠んだ歌が40首に対し、梅を詠んだ歌は100首程度であるが、平安時代の『古今和歌集』(905年成立)ではその数が逆転している。大伴旅人の「梅花の宴」が、花見の起源であったのではないかと考える。旅人はその着想を『翰苑』に掲載されていた「蘭亭序」にある「曲水の宴」から得たのである。「曲水の宴」では、川上から杯が流れ着くまでに詩を作り、もし詩が出来なければ、罰として大きな杯に3杯の酒を飲まされるという、大伴旅人は「梅花の宴」で、どのような趣向を凝らしたのであろうか。


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