69-12.飛鳥時代の須恵器の実年代 [69.須恵器の型式をAIで判定する]
『書紀』崇峻元年に「飛鳥衣縫造の先祖の樹葉の家を壊して、はじめて法興寺(飛鳥寺)を造った。この地を飛鳥の真神原と名づけた」とあり、588年に法興寺の創建が始まっている。落成したのは推古4年(596年)である。飛鳥寺下層出土の坏はこの時期のものではないかと考える。甘樫丘の北西麓にある豊浦寺跡の発掘調査では、講堂・金堂跡と見られる下層から掘立柱建物や石敷が発見された。豊浦寺は推古天皇の即位から小墾田宮に移るまでの豊浦宮(592年~603年)の跡に建てられたと考えられている。豊浦寺下層出土の坏は豊浦宮時代のもと思われる。薄緑の枠内の中村編年Ⅱ-5はTK209と同じ年代で、年代は飛鳥時代初頭の590~619年と考える。
京都府宇治市の宇治平等院の北2kmの丘陵に、隼上り瓦窯跡がある。ここで焼かれた瓦は7世紀初頭、推古天皇の時代に蘇我氏が飛鳥に、飛鳥寺と対をなす尼寺として建立した豊浦寺で使われていたことが判明している(Z410)。『書紀』推古36年(628年)の記事に、聖徳太子の息子の山背大兄王が「以前に叔父(蘇我蝦夷)の病を見舞おうと、京に行って豊浦寺に滞在した。」とある。これらより豊浦寺の創建は603年から628年の間であることが分る。隼上り瓦窯跡には4基の窯があるが、1・3・4号窯は瓦窯として、2号窯は須恵器窯として操業を開始している。その後、2号窯は瓦窯に転用され、最終的に須恵器窯にもどり他の窯より早くに廃絶している。なお、隼上り瓦窯の廃絶期には1・3号窯でも須恵器が焼かれている。
2号窯の灰原からはZ411のH坏身・G坏蓋・はそう・有蓋高坏が出土している。なお、G坏比率「G坏蓋/(H坏身+G坏蓋)」は25%である。Z408の薄青の枠内にある「+」が隼上り2号瓦窯の灰原の坏で、飛鳥Ⅰ・Ⅱ-6(TK217古)の段階であることが明確である。Z412にはそう、Z413に有蓋高坏のガウス曲線による型式判定を示した。いずれも型式はⅡ-6(TK217古)であること示している。豊浦寺の創建年代と照らし合わせて考えると、隼上り瓦窯で豊浦寺の瓦を造ったのは620~628年頃と推察し、飛鳥ⅠはⅡ-6(TK217古)の段階で、その始まりの年代は620年頃と考える。
飛鳥宮跡を俯瞰する甘樫丘の東麓には蘇我氏の邸宅があった。『日本書紀』の皇極3年(644年)の記事には「蘇我の大臣蝦夷と子の入鹿は、家を甘樫岡に並べて建てた。大臣の家を上の宮門と呼び、入鹿の家を谷の宮門といった。男女の子たちを王子といった。家の外にとりでの柵を囲い、門のわきに武器庫を設けた」とある。また、皇極4年(645年)の“乙巳の変”で、中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿を大極殿で斬殺した後、蘇我蝦夷を殺そうと迫った時の記事には「蘇我臣蝦夷らは殺される前に、すべての天皇記・国記・珍宝を焼いた。」とある。甘樫丘東麓遺跡は蘇我氏の邸宅の遺構と考えられている。この遺跡のSK184・焼土層から出土した須恵器は飛鳥Ⅰで、G坏比率58%である。
645年の乙巳の変で中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我氏を滅ぼし、孝徳天皇が即位され難波長柄豊崎宮に遷都し大化の詔を発している。この難波宮跡の北西部の発掘調査で、谷部16層から「評」「戊申年」と書かれた木簡が出土した。「評」は行政区域の単位で、大宝律令(701年)以後は「評」に代わり「郡」が使用されていることから、「戊申年」は大化4年(648年)の戊申年と考えられている。難波宮北西部遺跡の谷部16層から出土した須恵器は飛鳥Ⅱとされており、G坏の比率は81%であり、H坏の減少が進んだ段階であることがわかる。Z408で「✕」で示した前期難波宮跡から出土した坏は概ね肌色の枠内に入っている。飛鳥ⅡはⅢ-1(TYK217新)のH坏身のかえりの立ち上がり無くなる段階で、G坏比率はH坏が消滅する直前の時期で75%~100%である。
飛鳥Ⅰ(Ⅱ-6、TK217古)と飛鳥Ⅱ(Ⅲ-1、TYK217新)の境の年代は、“乙巳の変”があった645年と考える。7世紀後半の須恵器の始まりは飛鳥Ⅲである。飛鳥Ⅲの標式資料である大官寺下層土坑SK121出土の須恵器の坏は全てG坏(台付き坏除く)でH坏は消滅していることが分かる。飛鳥Ⅲの年代は壬申の乱(672年)後、天武天皇が飛鳥浄御原宮に遷都後と考えられている。飛鳥Ⅲは中村編年ではⅢ-2(TK46)と考える。飛鳥時代前半の須恵器の編年・年代は下記のようにまとめることができる。
中村編年 田辺編年 飛鳥編年 実年代 G坏比率
Ⅱ-5 TK209 590~619年 0%
Ⅱ-6 TK217古 飛鳥Ⅰ 620~639年 0~75%
Ⅲ-1 TK217新 飛鳥Ⅱ 640~669年 75~100%
Ⅲ-2 TK46 飛鳥Ⅲ 670年~ 100%