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69-10.植山古墳は推古天皇の初葬墓 [69.須恵器の型式をAIで判定する]

天皇陵でみると、最後の前方後円墳は敏達天皇陵(太子西山古墳)であり、敏達天皇以降の天皇陵は方墳・円墳・八角墳となっている。敏達天皇の皇后であった豊御食炊屋姫尊が後に推古天皇となっている。『書紀』によれば、推古36年(628年)3月に推古天皇は亡くなったが、その前群臣に「この頃五穀がみのらず、百姓は大いに飢えている。私のために陵を建てて、厚く葬ってはならぬ。ただ竹田皇子(敏達天皇との息子)の陵に葬ればよろしい。」と遺詔している。『書紀』は推古天皇の陵墓名・地名を記していないが、『古事記』には「御陵は大野崗の上にありしを、後に科長の大陵に遷しまつりき。」とある。

 

Z400-Z401植山古墳.png


Z402.植山古墳西石室須恵器.png竹田皇子の墓は橿原市五条野町の植山古墳が有力視されている。植山古墳はZ400の写真に見えるように、竹田皇子の祖父であり、推古天皇の父である欽明天皇の御陵と考えられる見瀬丸山古墳(五条野丸山古墳)のすぐ側にある。植山古墳は平成12年に橿原市教育委員会により発掘調査された。植山古墳は東西49mx南北27mの長方墳方で、丘陵の南斜面にコの字状に周濠を掘り墳丘を削り出している。墳丘には横穴式石室が東西に二基並んでいる。橿原市埋蔵文化財調査報告『史跡 植山古墳』には、東石室の構築時期は6世紀末、西石室は7世紀前半とある。西石室から須恵器の坏・高坏・長頚壺(Z402)が出土しているが、調査報告書には須恵器の型式は言及していない。ガウス曲線を使って、無蓋高坏の型式を検証した。Z403の赤線で判定すると、無蓋高坏の型式はNo12(左上11-12,右上9-13,左下12-13,右下12-13)のTK217古(Ⅱ-6)と判定できた。

 

Z403.無蓋高坏 植山古墳西石室.png


Z404.植山古墳南整地層坏.png西石室から出土した坏身の指標をZ405の黒線に示した。右下のAngleで判るように、前述の無蓋高坏の型式No12のTK217古よりも古い型式であることが分かった。これは東石室のものかと思ったが、東石室からは須恵器は出土していない。墳丘の南側(二つの石室の正面)には、古墳築造に伴う整地層があり、その整地層の直上ないし整地層内から須恵器の坏身(Z404)が出土している。その中で器形が完全な3点の指標をZ405の赤線で示した。西石室から出土した坏身は、これら3点と同時期、古墳築造当時の杯身であることが明確である。これら4点の坏身の型式はNo10(8 or 12,9-11,9-10,10)のTK43(Ⅱ-4)と判定した。

 

Z405 植山古墳坏、西石室・整地層.png

植山古墳が『古事記』に見える大野岡上陵だとすると、東石室に竹田皇子が葬られ、西石室に推古天皇が一時的に葬られていたことになる。竹田皇子が『書紀』に登場する最後の記事は、用明天皇没後の587年に、蘇我馬子大臣が諸皇子と群臣によびかけ物部守屋大連を滅ぼしたときの軍勢に、泊瀬部皇子(崇峻天皇)・厩戸皇子(聖徳太子)共々と加わっていたことである。竹田皇子の父敏達天皇と母豊御食炊屋姫皇后(推古天皇)は欽明天皇の異母兄弟、また厩戸皇子の父用明天皇と母穴穂部間人皇后は欽明天皇の異母兄弟で、両者は同じ境遇である。593年に推古天皇が皇位に就いたとき、竹田皇子が皇太子にはならず、厩戸皇子が摂政となっている。竹田皇子は587年の戦で命を落としたと考えられる。

 

植山古墳の古墳築造(東石室築造)当時の須恵器の型式はTK43と判定した。TK43の年代は560~589年であり、竹田皇子の亡くなったと推定する587年とピッタリあっている。また、西石室の須恵器の高杯の型式はTK217古で年代は620~639年であり、推古天皇の崩御の628年とピッタリ合っている。これらより、植山古墳の東石室は竹田皇子が埋葬され、西石室は推古天皇が埋葬されたと思われる。推古天皇の御陵は大阪府太子町の磯長谷古墳群にある山田高塚古墳(方墳)に比定されている。『古事記』が記していた通り、推古天皇の御陵は植山古墳から山田高塚古墳に移されたもと思われる。


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69-11.飛鳥時代前半の須恵器編年は混沌 [69.須恵器の型式をAIで判定する]

 須恵器の編年は、生産地である陶邑窯跡群から出土した須恵器に基づいて田辺昭三氏や中村浩氏により成し遂げられた。一方、推古天皇から始まる飛鳥時代、7世紀の須恵器の編年については、消費地である飛鳥・藤原京から出土した須恵器に基づいて、西弘海氏によって飛鳥編年が提唱され、多くの考古学者の間で使用されている。飛鳥編年では7世紀の須恵器を飛鳥Ⅰから飛鳥Ⅴの五段階に別けている。飛鳥編年では、飛鳥Ⅰから坏蓋には珠形のつまみをもち端部にかえりのあるG坏と呼ばれるものが登場し、従来の坏身にかえりのあるH坏は減少して、飛鳥Ⅲの段階では坏の全てがG坏となることに注目している。G坏比率「G坏蓋/(H坏身+G坏蓋)」を各型式の標式資料でみると、飛鳥Ⅰが48%、飛鳥Ⅱが77%、飛鳥Ⅲが100%になっている。

Z406.H坏とG坏.png

一方、中村編年でみると7世紀の須恵器は、Ⅱ-5・Ⅱ-6・Ⅲ-1・Ⅲ-2の段階に相当する。中村氏の『和泉陶邑窯出土須恵器の型式編年』でみると、Ⅱ-5・Ⅱ-6の段階ではG坏が全く存在せずH坏のみであり、Ⅲ-1・Ⅲ-2の段階ではH坏が全く存在せずG坏(台付き坏除く)のみである。中村編年ではH坏とG坏が共存する飛鳥Ⅰと飛鳥Ⅱに相当する時期が無いのである。7世紀(飛鳥時代)の須恵器の編年において、7世紀後半(飛鳥Ⅲ、Ⅲ-2)以降の編年はほとんどの学者の意見が一致しているが、7世紀前半の編年については様々な説が並立しているのは、このためであると考える。


『和泉陶邑窯出土須恵器の型式編年』のⅡ-6とⅢ-1の図面を見ていて、TG17窯・TG64窯・TG206窯が両者の型式に登場していることが分った。Ⅱ-6型式とされている前記3窯の坏身の外径の平均は103㎜、残りの窯の外径は117mmと大きく異なっている。これらより、TG17窯・TG64窯・TG206窯の坏の型式はⅢ-1とする方がよいと思われた。こう考えると、生産地の陶邑でⅢ-1の時代にH坏が生産されていたことになり、消費地の飛鳥・藤原京から出土するH坏と整合性がとれる。


Z407.飛鳥編年と中村編年.png飛鳥編年においては、その指標に坏の外径・法量(容量)が用いられる。この指標を用いて、飛鳥編年と中村編年の突合せを行ってみた。飛鳥編年の飛鳥Ⅰの標式資料は、川原寺SD02(資料数3)、山田寺整地層(13)、甘樫丘東麓遺跡焼土層(6)、甘樫丘東麓遺跡SK184(8)、飛鳥池遺跡灰緑色粘砂層(8)で、飛鳥Ⅱの標式資料は、坂田寺SD100(1)、水落遺跡貼石遺構(1)、難波宮北西部(4)である。中村編年はⅡ-5(15)、Ⅱ-6(8)、Ⅲ-1(11:TG16TG64TG205)とした。横軸を坏の外径、縦軸を坏の容量(外径x器高)として、飛鳥編年・中村編年の坏の値をプロットした。が飛鳥Ⅰ、●が飛鳥Ⅱ、がⅡ-5、がⅡ-6、▲がⅢ-1である。Z407から飛鳥Ⅰに対応するのはⅡ-で、薄水色の枠内(外径㎜:105132、容量㎠:3048)であることがわかる。飛鳥ⅠはⅡ-6(TK217古)、飛鳥ⅡはⅢ-1(TK219新)と考える。


 


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