69-8.市尾墓山古墳は畿内型横穴式石室の初現か? [69.須恵器の型式をAIで判定する]
近藤義郎編『前方後円墳集成』(1992年、山川出版社)という本がある。全6巻に全国5200余基の前方後円(方)墳の調査資料を集大成してあり、古墳研究者にとってはバイブルの本である。この本では全国的規模での前方後円墳の横並びの関係をつかむために、広瀬和雄氏が作成した「畿内における前方後円墳の編年基準」を共通の編年基準として、古墳時代を10期に区分することを採用している。この編年基準では、川西宏幸氏の円筒埴輪編年と田辺昭三氏の須恵器編年を基本として、その他の要素を加えて編年基準が作成されている。この編年基準は「集成編年」として、研究者の間でもっぱら用いられている。
古墳後期の始まりについては、集成編年9期からとしている学者も多い。集成編年9期の定義は「円筒埴輪のⅤ式。MT15・TK10型式。鉄製輪鐙・心葉形杏葉・楕円形杏葉・鐘形杏葉・半球形雲珠や竜鳳環頭大刀が出現する。横穴式石室が普及する。」とある。横穴式石室は畿内型横穴式石室のことである。横穴式石室の初現は、奈良県高取町にある墳長70mの前方後円墳の市尾墓山古墳であり、横穴式石室(Z387)は奥行5.9x幅2.5x高さ2.9mで自然石を小さな持ち送りで8~10段積み上げ、天井石5枚で覆っている。片袖型の横穴式石室で3.6x1.8x1.7mの羨道を持つ。玄室内部には刳抜式の家形石棺が一基を安置されている。円筒埴輪はⅤ式、須恵器はMT15とTK10の二つの意見に分かれている。
市尾墓山古墳の石室からは、坏身4点・坏蓋3点・はそう2点・無蓋高坏5点・器台2点・広口壺2点・短頸壺1点・同蓋2点が出土している。その一部の図面(Z388)で、ガウス曲線による型式判定(黒線)をおこなった。はそう(Z389)はNo8(左上8-12,右上4-8,左下7-8,右下7-8)、坏身(Z390)はNo7~8(6-8,7-10,7-9,6-9)、無蓋高坏(Z391)はNo8~9(8-11,8-9,8-9,8-11)である。市尾墓山古墳は追葬が無いとされているので、須恵器の型式はNo8のTK10(Ⅱ-2)と判定できる。TK10の年代は520~549年であり、市尾墓山古墳が畿内型横穴式石室の初現ではないように思える。
私は古墳時代の始まりを、円筒埴輪Ⅴ式・須恵器TK23・TK47の集成編年8期からと考えている。そして、畿内型横穴式石室の初現は、京都府宇治市にある墳長約112mの前方後円墳である宇治二子塚古墳であると思っている。宇治二子塚古墳の円筒埴輪はⅣとⅤ式、須恵器はTK23またはTK47である。石室は大正時代に取り壊されており、隣接する西方寺の裏庭にある巨石(高さ3.2x幅2.8m)は、古墳破壊の時にその天井石の一石をここに運び庭石としたと言われている。昭和62年から行われた発掘調査では、後円部中央に東西16x南北8x深さ4.3mの巨大で堅牢な基礎を発掘している。市尾墓山古墳にも、同様の基礎があることが確認されており、宇治二子塚古墳の横穴式石室の存在は確実なものとなっている。須恵器の型式の判定を行いたいが、残念ながらその資料は入手できない。
69-9.藤ノ木古墳の被葬者は誰か? [69.須恵器の型式をAIで判定する]
藤ノ木古墳の玄室から出土した須恵器(Z396)は、はそう2点・無蓋高坏7点・有蓋高坏9点・同蓋14点・台付長頸壺3点・同蓋3点・長頸壺1点・器台1点の須恵器が出土している。なお、左列中央の坏身に見えるのは有蓋高坏の坏身部分である。ガウス曲線による型式判定(黒線)をおこなうと、はそう(Z397)はNo10(左上9-11,右上10,左下9-11,右下10-13) 、無蓋高坏(Z398)はNo10(9-11,10-12,9-11,9-10)、有蓋高坏(Z399)はNo10(10,10-11,9-11,8-11)である。須恵器の型式はNo10のTK43(Ⅱ-4)と判定でき、学者の判定と一致している。
藤ノ木古墳の石棺からは、衣服の上からさらに4重の布で包まれた2体の成人男性の人骨が出たことから、その被葬者について議論が沸騰した。白石太一郎氏は副葬遺物の金銅製鞍金具は東アジアで発見されているものでは最高級のものである、金銅装の大刀は伊勢神宮の神宝玉纏大刀と共通の様式であることなどから、被葬者は大王家の大王以外の男性、すなわち皇子であると推測されている。
白石氏は6世紀第4四半期頃(須恵器TK43)で、二人の有力な皇子がほぼ同時に没する出来事としては、用明天皇没後の587年の皇位継承をめぐる争いで、物部守屋大連と組んで皇位につこうとした穴穂部皇子(欽明天皇の皇子)と宅部皇子(宣化天皇の皇子)が蘇我馬子大臣に殺されたことを取り上げ、藤ノ木古墳の被葬者はこの二人の皇子であるとしている。なお、TK43の年代を私は560~589年としており、穴穂部皇子と宅部皇子が暗殺された年代とピッタリあっている。
法隆寺の高田良信氏は藤ノ木古墳が発掘された直後、法隆寺が保管しているさまざまな時代の文章に、ミササキとか陵山(みささぎやま)などと呼ばれていた藤ノ木古墳についての記載があること、藤ノ木古墳の近くに陵堂があったこと、江戸時代には崇峻天皇御陵として伝えられていたことなどを発表している。藤ノ木古墳の玄室からは江戸時代の灯明皿が出土している。このことと、未盗掘であったことを重ね合わすと、近世に至るまでこの石室内で被葬者に対する供養が行われていたと考えられ、高田氏の話と符合する。驚いたことに、法隆寺の行事として毎年11月3日に崇峻天皇御忌の法要が聖霊院で行われており、以前は藤ノ木古墳でも法要が行われていたそうだ。藤ノ木古墳の被葬者が崇峻天皇であるという伝承を、法隆寺は現在でも受け継いでいる。
崇峻天皇が蘇我馬子に暗殺されたのは592年であり、TK43の年代とも合っている。ただ、『日本書紀』は崇峻天皇の御陵は倉梯岡陵(奈良県桜井市倉橋)とし、『古事記』も倉椅岡のほとりとしている。桜井市倉橋にある赤坂天王山1号墳は、江戸時代には崇峻天皇の御陵みられていた。一辺約45mの方墳で、埋葬施設は全長15mの両袖式の横穴式石室である。玄室は長さ6,3mx幅3.2mx高4.2mがあり、玄室には二上山の白色凝灰岩で刳抜式家形石棺が一基据えられている。玄室・石棺は藤ノ木古墳と良く似ており、6世紀後半の古墳と見られている。赤坂天王山1号墳は地所・規模・形態・年代からみて、歴史学者・考古学者の間では崇峻天皇陵として有力視されている。
「68-10.記紀が定めた天皇陵は規模・年代に齟齬は無い」で述べたように、天皇陵の治定には古墳の規模や形態、埴輪や須恵器の年代からみて齟齬がある御陵が少なからずあるが、記紀が記載した陵墓の地には、規模・形態・年代に齟齬をきたさない古墳が存在しており、記紀が記載した陵墓の地は正確であった。これからすると、藤ノ木古墳が崇峻天皇陵とはならないと思われる。法隆寺はいつから藤ノ木古墳の被葬者を崇峻天皇とするようになったのであろうか謎は残る。