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69-6.雄略天皇は景行天皇陵に参拝したか? [69.須恵器の型式をAIで判定する]

天理市にある景行天皇陵(渋谷向山古墳)の前方部墳丘頂に据えられていた円筒埴輪の中から、須恵器のはそうが出土している。宮内庁の『書陵部紀要 第22号』(1970年)の「景行天皇陵出土の須恵はそう」には、口縁部が未修復であるはそうの写真が掲載されていた。現在、宮内庁のHPには完璧に修復された景行天皇陵出土のはそうの写真が公開されている。このはそうの写真をパソコンのペイントにコピーして各部の座標をデータとして取り込んだ。写真は少し斜め上から撮影されているが、側面の座標で読むかぎり、頸径と胴長の比は実寸の比とほぼ同じであり、はそうの写真から得た座標をもとに型式を判定することが出来た。Z381の赤線が示すようにNo6に近いNo5(左上5-6,右上5-7,左下1-6,右下5)のTK23(-)と判定出来る。

 

Z381.

Z382.景行天皇陵はそう.pngZ381にある青線は、三重県松坂市の常光坊谷4号から出土したはそうで、No5またはNo6(5-6,6-7,1-6,5)と判定した。No5はTK23(-)で、No6はTK47(-)である。『古墳出土須恵器集成 第1巻』では常光坊谷4号のはそうの型式はTK47とあった。TK23の年代は460~489年、TK47は470~499年で、両型式は年代がオーバーラップしており形状が良く似ているのであろう。景行天皇陵のはそうの写真の上に、常光坊谷4号のはそうの図面を重ねあわせると、Z382のように両者の形状がピッタリ一致した。

    

景行天皇陵のはそうの型式をTK23(-)とすると、その年代は雄略天皇(464~486年)の時代と重なる。『宋書』倭国伝に記載された倭の五王の武は、雄略天皇であると考えられているが、478年に朝貢した武は上表文の中で「昔からわが先祖は、みずから甲冑をつらぬき、山川を跋渉し、安んずる日もなく、東は毛人を征すること55国、西は衆夷を服すること66国、北のかた海を渡って平らげること95国に及び、巨大な一国家をつくりあげました。」とある。日本武尊を遣わして蝦夷・熊襲の征伐を行った景行天皇の陵墓で、雄略天皇が先祖を崇める祭祀を行ったとしても不思議ではない。


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69-7.ワタカケル大王の時代の須恵器型式 [69.須恵器の型式をAIで判定する]

雄略天皇の和名は『古事記』には「大長谷若建命」、『日本書紀』には「大泊瀬幼武尊」とあり、「おおはつせわかたけるのみこと」である。埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した鉄剣の金象嵌、熊本県玉名郡の江田船山古墳から出土した鉄剣の銀象嵌には「獲加多支鹵大王」の銘があり「ワカタケル大王」と読めることから、雄略天皇を指していると考えられている。特に稲荷山古墳から出土した金象嵌鉄剣には「辛亥の年7月中に記す」とあり、辛亥の年は471年と考えられている。

 

Z383.稲荷山古墳須恵器.jpg稲荷山古墳からは、須恵器の坏蓋・有蓋高坏・はそう(Z383)が出土している。有蓋高坏の内で透窓がある8個の型式判定を行った。これらは個別の判定を行うのではなく、8個の測定値から平均値と標準偏差(σ)を算出し、“平均値±1σ”の値から、その範囲を満足する型式を抽出した。Z384の黄色の範囲で、有蓋高坏の型式はNo4~5(左上4-6,右上4-6,左下4-5,右下4-5)の範囲しか絞り込めなかった。はそうの型式はZ385に示すようにNo5(5-7,5-7,1-6,5)であった。したがって、稲荷山古墳の須恵器の年代はNo5のTK23(Ⅰ-4)と判定できる。TK23は460~489年であり、辛亥の年471年を満足している。なお、学者は稲荷山古墳の須恵器の型式をTK43(Ⅰ-5)と判定しており、ガウス曲線の判定と違っている。これは前節で述べたように、TK23とTK47は年代がオーバーラップしており形状が良く似ているためである。

 

Z384-385.稲荷山型式判定.png


Z386.埴輪・須恵器編年表.png有蓋高坏・はそうのガウス曲線の4図を見て気付くことは、何れの図も変曲点がNo5のTK23、No6のTK43にあることだ。このことは無蓋高坏・坏身にも起っている。Z386に見られるように須恵器のTK23・TK47の時代は、円筒埴輪がⅣ式期からⅤ式期に変わり、古墳時代が中期から後期に代わった時期である。古墳後期の特徴は、何んと言っても横穴式石室の登場である。須恵器の形態の変遷をあらわすガウス曲線は時代の大きな流れを的確に捉えている。


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