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69-5.AIによる高坏の型式判定 [69.須恵器の型式をAIで判定する]

Z376.無蓋高坏の測定箇所.png高坏は須恵器が作られ始めた当初のTK232(Ⅰ-1前)の時代から登場している器種である。高坏は蓋が付かない無蓋高坏と蓋が付く有蓋高坏の2種類がある。そして夫々が、脚部の長さの長脚・短脚と脚部の透かし窓の有・無で4タイプに分かれる。高坏の脚の長さは時代と共に長くなるが、短脚(坏長/脚長>0.9)で透窓無の高坏は長脚の時代にも共存している。そのため、AIでの高坏の型式判定においては、この短脚・透窓無の高坏は排除している。

 

無蓋高坏の測定箇所はZ376に示した通りで、ガウス曲線を描いた指標は、口径/全長(MD/TH)、坏長/脚長(CH/LH)、頸径/足径(ND/FD)、足径/脚長(FD/LH)である。Z377に無蓋高坏の型式別形態ガウス曲線を示す。有蓋高坏の坏部は坏身と同じ指標で、脚部は無蓋高坏の脚部と同じ指標であり、ガウス曲線は、立上り/坏長(KH/CH) 立上り/外径(KH/OD)、坏長/脚長(CH/LH)、足径/脚長(FD/LH)としてZ378に示した。

 

377.無蓋高坏ガウス曲線.png
Z378.有蓋高坏ガウス曲線.png


前方後円墳が終焉を向かえるのは、須恵器の型式がTK209(Ⅱ-5)の時代である。古墳時代が終わり飛鳥時代に入ると円墳・方墳を中心とした古墳が作られ終末期古墳と呼ばれている。その先駆けとなったのが都塚古墳で、欽明31年(570年)に亡くなった蘇我稲目の墓でないかと考えられている。都塚古墳は一辺が約40mの方墳で、階段ピラミッド状の形をしている。その頃から、大阪府河南町の平石谷に三基の大型方墳、シシヨツカ古墳・アカハゲ古墳・ツカマリ古墳が造られている。。三基とも埋葬施設は花崗岩の切石で造られた横口式石槨で、棺は高級な漆塗籠棺であった。大阪府教育委員会の上林四郎氏は、この地が大伴氏の勢力範囲であることとして、この三基の大型方墳を大伴金村の子孫の墓としている。

 

三基の中で最も古いのがシシヨツカ古墳で、後期古墳から終末期古墳への過渡期に築造された古墳と考えられている。私は、「61.後期古墳・終末期古墳の被葬者を比定する」で、シシヨツカ古墳は大伴金村の息子の狭手彦の墓であると論証した。『日本書紀』欽明23年(562年)には、大伴狭手彦は数万の兵を率いて高麗(高句麗)を撃破し、勝ちに乗じて宮殿に入って珍宝・財貨などを奪い帰還し、七織帳を天皇に献上し、甲・金飾刀・銅鏤鐘・五色幡と美女媛・従女吾太子を蘇我稲目大臣に送っている。蘇我稲目は美女媛の影響を受け、高句麗のピラミット形の陵墓を造り、大伴狭手彦もその影響を受け、方形の陵墓を造ったと想像する。Z379.シシヨツカ古墳高坏.png

 

シシヨツカ古墳からは、須恵器甕に納められた4個の無蓋高坏(Z379)が出土している。高坏の型式はTK43(Ⅱ-4)とあった。この無蓋高坏の型式を、ガウス曲線を使って判定(Z380)すると、No10(左上9-10,右上10-12,左下9-11,右下9-10)となり、無蓋高坏の型式はTK43(Ⅱ-4)で、研究者の見解と一致している。TK43の年代は560~589年である。

 

Z380.無蓋高坏型式判定.png

大伴狭手彦は宣化2年(537年)に任那に派遣され、欽明23年(562年)には高麗(高句麗)を撃破し帰還している。これからすると宣化2年に30歳だったとすれば、欽明23年は55歳であったことになる。大伴狭手彦が70歳までに亡くなり、シシヨツカ古墳に葬られたとするならば、TK43の須恵器が副葬されても齟齬はない。


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