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68-7.大仙古墳はなぜ仁徳天皇陵と認められないのか? [68.記紀は史実に基づいて天皇陵を定めている]

Z351.天皇在位と墳丘長.png百舌鳥古墳群には全国第一位の規模を誇る墳長486mの前方後円墳の大仙古墳がある。記紀は仁徳天皇の御陵は百舌鳥野にあると記し、宮内庁は大仙古墳を仁徳天皇陵に治定している。「縮900年表」では、仁徳天皇(381年〜431年)の在位は51年間で、古墳時代の天皇(崇神天皇〜欽明天皇)の中では最長である。Z351が示すように、在位年数と古墳規模は概ね関係があり、在位が長い天皇陵の規模が大きく、在位の短い天皇陵の規模は小さいことが分かる。なお、これまでに見直した天皇陵は、仲哀陵を津堂城山古墳、雄略陵は河内大塚古墳、仁賢陵を岡ミサンザイ古墳、継体陵を今城塚古墳、宣化陵を平田梅山古墳、欽明陵を見瀬丸山古墳にしている。『日本書紀』から編年した在位年数からしても、百舌鳥古墳群で最大規模の大仙古墳は仁徳天皇陵と言える。

 

中国の史書『宋書』倭国伝では、倭の五王の讃は421年・425年に遣使を行っており、そして珍が朝献した438年には讃は亡くなっている。このことから、讃が亡くなったのは425〜438年の間であることが分かる。讃が仁徳天皇であることは通説となっている。一方、大仙古墳の造出から出土した須恵器の大甕の型式はON46で、「箸墓260編年」では430年〜449年となる。大仙古墳の考古学上の築造年代と、『宋書』倭国伝に書かれた倭国王讃の崩じた年代、「縮900年表」による仁徳天皇の崩御の年は一致しており、大仙古墳を仁徳天皇陵に比定出来る。

 

それでも歴史研究者から「仁徳天皇陵古墳は仁徳天皇の墓とはいえない。」との異論が上がってくるのは何故であろうか。大仙古墳が仁徳天皇陵であることを確定するためには、記紀が百舌鳥耳原にあると記している履中天皇陵と反正天皇陵が確定されなければならないと考える。宮内庁は履中天皇陵を全国3位(墳長365m)の百舌鳥陵山古墳(石津ミサンザイ古墳)に治定し、反正天皇陵を全国73位(墳長148m)の田出井山古墳に治定している。履中天皇陵が百舌鳥陵山古墳であることに疑問を抱かなかった昭和の末までは、田出井山古墳は天皇陵としては規模が小さいと、百舌鳥古墳群の全国8位(墳長288m)の土師ニサンザイ古墳(ニサンザイ古墳)を反正天皇陵に比定する伝承や学者の説があった。宮内庁もニサンザイ古墳を反正天皇陵の陵墓参考地にしている。

 

1980年(昭和55年)代に川西宏幸氏が円筒埴輪(含む朝顔形埴輪)の型式を層別して古墳の年代を推定する指標を発表し、履中天皇陵に治定されている百舌鳥陵山古墳の埴輪型式がⅢ式、仁徳天皇陵に治定されている大仙古墳の埴輪型式がⅣ式であることが分かった。因みに、古市古墳群にある応神天皇陵に治定されている誉田御廟山古墳(墳丘420m:全国2位)の埴輪型式はⅣ式である。履中天皇の御陵が父親の仁徳天皇陵(大仙古墳)、祖父の応神天皇陵(誉田御廟山古墳)よりも古い古墳であることが分り、履中天皇陵を百舌鳥陵山古墳に治定することが、考古学的に否定された。

 

Z352は百舌鳥古墳群にある大形前方後円墳について、築造年代の古い順番に並べている。この順番は『仁徳陵築造』(堺市博物館、2009年)に記載されたものを採用した。百舌鳥古墳群には埴輪型式が大仙古墳と同じⅣ式である大型古墳が5基ある。これらは須恵器の型式で層別され、大仙古墳より新しい古墳は田出井山古墳とニサンザイ古墳の二基のみである。堺市博物館の編年に従えば、田出井山古墳が履中天皇陵、ニサンザイ古墳が反正天皇陵となる。

 

Z352.百舌鳥古墳群.png

ニサンザイ古墳は墳長が290mで、全国第8位の規模の古墳である。反正天皇の在位は、『古事記』『日本書紀』共に5年である。全国第8位の規模の古墳が、在位5年の反正天皇の御陵であるとなると、在位年数と古墳規模(墳丘長)が関係しているとの考えは否定され、大仙古墳が仁徳天皇陵と言える大きな根拠が無くなってしまう。考古学者が未だに「仁徳天皇陵古墳は仁徳天皇の墓とはいえない。」としているのも、こんな所に原因があるのかも知れない。反正天皇の兄の履中天皇の在位は6年で、たとえニサンザイ古墳が履中天皇の御陵であったとしても、それは同じである。


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