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68-5.河内大塚古墳は安閑天皇陵か? [68.記紀は史実に基づいて天皇陵を定めている]

Z350.河内大塚古墳実測図.png河内大塚古墳を古墳時代後期6世紀中葉以降に比定する見方が定着する中で、堺市文化財課の十河良和氏は未完成の古墳であると主張した。河内大塚古墳は周濠の深さは極めて浅く堆積土も少ない。前方部の削平にともなう周濠への盛り土の移動がないことから、前方部が異常に低いのは本来の形状であり(Z350)、前方部の盛り土が行われていなかったと結論付けている。そして、安閑天皇が河内大塚古墳を寿陵として築造していたが、皇位継承問題で殺害され(辛亥の変)、未完の河内大塚古墳には埋葬は叶わず、『書紀』記載の「安閑天皇・春日山田皇女、河内古市高屋陵合葬」の如く、皇后陵への緊急的な埋葬が行われたと推測している。この説は平成23年7月13日の読売新聞に取り上げられ話題を呼んだ。

 

十河氏は河内大塚古墳が未完成で埴輪が無いことについて、その証拠を河内大塚古墳の南南西5.5kmにある埴輪窯・日置荘西町遺跡に求めている。日置荘西町遺跡からは埴輪窯7基と須恵器窯5基が確認されており、埴輪窯の稼動時期は古墳後期(6世紀代)である。埴輪窯の稼動が始まったTK10・MT85頃の円筒埴輪は窯焼成・外面タテハケで埴輪Ⅴ式であるにもかかわらず、4世紀代(野焼きの埴輪Ⅱ・Ⅲ式)に造られた器高が1.2〜1.4mの大型品で、段によってスカシ穴が2個以上、鰭付きのものがある特長があり、一般的なⅤ式の埴輪とは違った系譜で日置荘窯系と呼ばれている。

 

日置荘窯系の円筒埴輪は、古市・百舌鳥古墳群内の古墳にその樹立が見つかっていない。一方、埴輪窯周辺では埴輪が他の用途に長期間に渡って転用されている。これは河内大塚古墳に供給されるはずの埴輪が、供給をストップされたためであるとして、河内大塚古墳の築造をMT85型式期、6世紀中頃と推測し、安閑天皇崩御の535年(乙卯)と結び付けている。


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