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68-2.記紀が定めた天皇陵を考古学的に検証 [68.記紀は史実に基づいて天皇陵を定めている]

我国の文化遺産である前方後円墳からは、エジプトや中国のように名前が書かれた遺物が出てくることもなく、まして天皇陵古墳が宮内庁の管轄にあって十分な調査や資料を得ることが出来ないハンデもあって、前方後円墳の年代を決めるのは困難であった。このような状況のなかで、1980年代に30歳を越えたばかりの川西宏幸氏が、古墳の墳丘に立てられた円筒埴輪(含む朝顔形埴輪)の型式を層別し、古墳の年代を推定する指標を発表した。円筒埴輪は発掘調査をしなくても墳丘上から採集でき、また宮内庁書陵部が採取した資料も活用できる。Z344に円筒埴輪の編年表(『考古学からみた日本の古代国家と古代文化』近つ飛鳥博物館)を示している。

 

Z344.埴輪型式編年表.png

『日本書紀』『古事記』には天皇が葬られた陵について○○○陵と記載されており、○○○には地名が入っていることが多く、天皇陵が所在する地域を概ね知ることが出来る。現在宮内庁が治定している天皇陵は、江戸時代に記紀や伝承をもとに治定されたものである。これらの天皇陵と皇后陵(没年次の分かる)で前方後円墳である陵について、考古学の知見、埴輪型式、須恵器型式、前方部幅/後円部径、造出の有無について調べ、齟齬がないかチェックした。Z345の天皇没年と在位は書紀の編年を900年縮めた「縮900年表」によっている。また、埴輪型式と須恵器型の実年は遺構・遺物の編年表「箸墓260編年」によっている。

 

Z345.天皇陵古墳.png

18陵の天皇陵・皇后陵の中で、考古学的に齟齬があったのは4陵(22%)のみであった。もし推古朝より前の天皇が大和朝廷の権威を高めるために創作された天皇であれば、『日本書紀』『古事記』が記載した天皇陵が考古学的編年と78%の確率で合っていることなど起こりようがない。『日本書紀』『古事記』が史実をもとに書かれているから、考古学の編年と合致するのである。

 

この齟齬があった4陵のなかで、仲哀天皇陵は北1.7kmにある津堂城山古墳(墳長208m、埴輪Ⅱ式、前方/後円0.95、造出有)に、継体天皇陵は大田茶臼山古墳の北東1.6kmにある今城塚古墳(墳長186m、埴輪Ⅴ式、前方/後円1.41、造出有)に、多くの考古学者が比定しており、考古学的な齟齬はない。両古墳とも中世に城砦として使用され大きく荒廃していたため、特に今城塚古墳は文禄5年(1596年)の地震で大きなダメージを受けていたため、江戸時代に行われた天皇陵の治定の対象から外れてしまったと思われる。


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68-3.天皇陵の規模は在位年数と関係している [68.記紀は史実に基づいて天皇陵を定めている]

天皇陵古墳の一覧表を見ていて、在位年数が長いほど古墳規模が大きく、在位年数が短いほど古墳規模が小さい傾向があるとが分かった。しかし、ここで言う在位年数は、書紀に記載された年数ではなく、書紀の編年を900年縮めた「縮900年表」による在位年数である。「縮900年表」が認知されていない現在、いくら声高に天皇の在位年数と墳丘長は関連していると騒いでも、それは信用されないであろう。そうかと言って百歳以上の天皇が何人も存在する『書紀』の編年を採用するわけにもいかない。そこで思いついたのが、記紀に書かれた各天皇の記事の漢字文字数と墳丘長の関係を比較することだ。文字数が多いということは、在位年数が長いことに通じるからだ。

 Z346.文字数と墳丘長.png

Z346に記紀に書かれている文字数を示す。『日本書紀』には、編纂時に百済記等から挿入された記事があり、漢字の全てがその天皇の記事でないという欠点がある。『古事記』には仁賢天皇から欽明天皇の間は、宮・御子・御陵について書かれ、在位中の出来事は書かれていない欠点があった。そこで、『日本書紀』と『古事記』の文字数の合計と墳丘長とを比較した。ただし、『古事記』の仁賢天皇から欽明天皇の文字数は5倍して加算するという補正を行っている。また、天皇陵の墳丘長で、仲哀天皇陵は津堂城山古墳、継体天皇陵は今城塚古墳の墳丘長としている。

 

Z347-1,文字数と墳丘長.pngZ347-1に文字数ベスト5とワースト5について、文字数と在位年数・墳丘長を比較した。文字数と在位年数は大きく関係していいることが分かる。文字数と墳丘長の関係で最も異常な値を示したのが、文字数でトップの欽明天皇陵の平田梅山古墳である。墳丘長140mはワースト5に相当する値である。欽明天皇陵を見瀬丸山古墳と考える研究者は多い。欽明天皇の陵墓は『書紀』に檜隈坂合陵と記され、推古20年(612年)の記事には「皇太夫人堅塩媛を檜隈大陵に改葬した。この日、軽の往来で誄(しのびごと)の儀式を行った。」とある。この「軽」の地は、見瀬丸山古墳の北側の橿原市大軽町とされ、町内には飛鳥時代の軽寺跡がある。平成3年、見瀬丸山古墳の石室の内部の写真が新聞に公表され、石室には二つの石棺が安置されていることが確認された。なお、採集された須恵器片はいずれもTK43型式のものであった。見瀬丸山古墳は墳長が全国第6位の310mで、石室規模・二つの石棺や須恵器TK43の年代から欽明天皇の陵墓と考えられる。

 

見瀬丸山古墳を欽明天皇陵とすると、欽明天皇陵と治定されていた平田梅山古墳は宣化天皇陵と比定できる。見瀬丸山古墳と平田梅山古墳の間は0.8kmである。平田梅山古墳は墳丘長が140mでワースト5の範囲であり、出土した須恵器は見瀬丸山古墳と同じTK43で時代も合っている。江戸時代の治定において、見瀬丸山古墳は荒廃が進み前方後円墳とは認識されず、後円部のみを円墳と見られ、石室内に二つの石棺があったことから天武・持統陵(合葬)と間違って比定されたため、欽明陵も宣化陵も間違うはめになったのであろう。なお、天武・持統陵は確かな証拠が出たため、野口王墓古墳(八角墳)に明治13年に治定変更されている。

 

Z347-2,文字数と墳丘長.png欽明陵を見瀬丸山古墳、宣化陵を平田梅山古墳としてZ347-2に書き改めた。明らかに在位年数と墳丘長の間に関係があることが分かる。各天皇の在位年数と墳丘長の関係を見ていて、気になったのが仁賢陵である。仁賢陵は墳丘長122mのボケ山古墳に治定されており、埴輪Ⅴ式で考古学的な齟齬はない。仁賢天皇の在位年数は11年で、墳丘長122mは規模が小さいように感じられる。仁賢陵は仲哀陵に治定されていた岡ミサンザイ古墳(墳丘242m、埴輪Ⅴ式)に比定する。ボケ山古墳と岡ミサンザイ古墳の間は1kmである。江戸時代の天皇陵の治定において、津堂城山古墳が荒廃していたために、仲哀陵に岡ミサンザイ古墳が間違って治定された。そのため仁賢陵も間違った治定にならざるを得なかったのであろう。これまでに見直した天皇陵は、仲哀陵を津堂城山古墳、仁賢陵を岡ミサンザイ古墳、継体陵を今城塚古墳、宣化陵を平田梅山古墳、欽明陵を見瀬丸山古墳にしている。見直した後の天皇陵の一覧はZ348である。

Z348.天皇陵古墳見直し1.png

 


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