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68-1.歴史・考古学者は仁徳天皇の実在を認めていないのか? [68.記紀は史実に基づいて天皇陵を定めている]

Z343.仁徳陵古墳.png2019年7月6日に「百舌鳥・古市古墳群」が世界文化遺産に登録されることが決定した。日本考古学協会など学術14団体は7月23日に大阪府庁で会見し、「○○天皇陵古墳」の構成資産名に疑問を投げかけ、仁徳天皇陵古墳については、学術用語などで用いられている「大山古墳」「大仙古墳」を併記するように求めた。確かにそうするべきだと思ったが、「被葬者が確定していないなかで天皇の名をつけるのは世界に誤解を与える。」とか「仁徳天皇陵古墳は仁徳天皇の墓とはいえない。」との異論が歴史研究者から上がっていることを聞くと、逆に、百舌鳥古墳群にある日本最大規模の古墳である仁徳天皇陵古墳(大仙古墳)と古市古墳群にある日本で二番目の規模の応神天皇陵古墳(誉田御廟山古墳)の被葬者が誰であるか、未だに確定出来ていない学術のレベルを世界から疑われるのではないかと思えてくる。

 

『古事記』『日本書紀』の歴史学としての研究は、江戸時代の新井白石・本居宣長に始まり明治から昭和の多くの学者により研究された。なかでも、大正時代早稲田大学教授の津田左右吉氏は、記紀の緻密な分析を行い、神話は大和朝廷の役人が天皇の地位を正当化するために創作したものであり、伝承されてきた歴史ではない。神武天皇から応神天皇までは史実かどうか疑わしいという説をとなえた。満州事変が起こり自由主義的な言論が弾圧されると、津田氏の著書に対しても皇室の権威を冒涜するものと圧迫が加えられた。第二次大戦後、津田氏の説は華々しく蘇り、多くの学者の支持を受け史学会の常識となり、さらに「推古朝以前は歴史の対象ではない」と、記紀の記載した歴史は葬りさられてしまった。

 

近年、考古学の発掘調査が数多く行われ、『日本書紀』が史実を書いていると見直されることも増えてきた。中でも大きな発見は、埼玉県行田市にある稲荷山古墳出土の鉄剣の115文字の金象嵌の中に、「辛亥の年」「獲加多支鹵大王」と読める文字があることが判明したことだ。熊本県菊水町江田船山古墳から出土した鉄剣の74文字の銀象嵌にも「治天下獲□□□鹵大王」の文字があることが分かっていたので、「獲加多支鹵(ワタカキロ)大王」は、『日本書紀』で「幼武(わかたけ)天皇」、『古事記』で「若建(わかたけ)命」と記されている雄略天皇を指し、書紀の編年からすると雄略天皇は457年から479年であり、「辛亥の年」は471年と定められた。また、『宋書』倭国伝に478年に朝貢した倭国王の武は、雄略天皇のことであるとされていたこともあって、記紀に記載された天皇のうち、雄略天皇までの実在を認めるようになった。稲荷山鉄剣の金象嵌の文字が発見されたのは1976年である。それから半世紀近くたった現在でも、「仁徳天皇陵古墳は仁徳天皇の墓とはいえない。」と言うことは、いまだに歴史・考古学学者は仁徳天皇や応神天皇の実在を認めていないのかも知れない 。


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