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67-23.桜井茶臼山古墳の被葬者は姫蹈鞴五十鈴姫命 [67.古墳時代は前方後円墳の時代]

桜井茶臼山古墳は三輪山の頂上を真北に見上げる位置にある。御神体を三輪山と拝する大神神社は日本最古の神社であり、主祭神が大物主神、配祀神が大己貴神、少彦名神である。『日本書紀』神代上の出雲神話では、「大己貴神が幸魂奇魂を大和の三諸山(三輪山)に宮を造って住まわされた。これが大三輪の神である。この神のみ子は賀茂たち・大三輪の君たち、また姫蹈鞴五十鈴姫命である。」とある。『書紀』の一書には「大国主神は、大物主神とも、また大己貴神ともいう。」とある。三輪山・大神神社は出雲と関係が深いことが分かる。桜井茶臼山古墳から初瀬川を2km遡った地区は「出雲」という地名が残っている。

 

壬申の乱で高市県主許梅が神がかりして、「神日本磐余彦天皇の陵に、馬や種々の武器を奉るがよい」と言い、許梅を参拝させ、馬と武器を奉納した御陵こそ、このメスリ山古墳と考えた。桜井茶臼山古墳はメスリ山古墳から1.7km離れ、墳形が同じ柄鏡式で、副葬品の種類はその数量を別にすると似かよっており、古墳の築造年代も270年と280年と近似している。これらより、桜井茶臼山古墳の被葬者は神日本磐余彦天皇(神武天皇)の皇后である姫蹈鞴五十鈴姫命と考える。

 

桜井茶臼山古墳の後円部墳頂の方形壇上の周辺に飾られていた二重口縁壷のルーツは、弥生時代の終わりから古墳時代の初め頃、出雲を中心とする山陰地方の遺跡から出土する鼓形器台にあると考える。写真Z 340は、出雲市下古志遺跡の弥生時代後期後半の地区から出土した鼓形器台と丸底の甕・壺である。鼓形器台が丸底壺の口縁となれば、Z341の茶臼山型二重口縁壷が出来上がる。鼓形器台は纏向遺跡からも出土している。

 

Z340-Z341,鼓形土器と二重口縁壷.png


Z342.桜井茶臼山古墳石室.png桜井茶臼山古墳の竪穴式石室はZ342のように板状の安山岩を積み上げ、その石材は全面水銀朱が塗られており、水銀の使用量は200Kg程度と推定されている。この水銀朱の産地推定の試みが同位体分析法(硫黄同位体・水銀同位体・鉛同位体)を用いて行われ、その結果が橿原考古学研究所発行の「青陵」136号に記載されている。「硫黄同位体比分析と水銀同位体比分析では、中国産と日本産は明らかに異なった値が得られ、桜井茶臼山古墳出土朱は日本産の可能性が高いと考える。しかし、硫黄同位体比分析では徳島県水井鉱山産と奈良県大和水銀鉱山産が区別できず、桜井茶臼山古墳出土朱は両者のどちらか区別できなかった。一方、水銀同位体比分析では奈良県産の可能性が示唆された。さらに、奈良県産と徳島県産で値が異なった鉛同位体比二次元グラフからは、奈良県産もしくは三重県産(丹生鉱山)の可能性が示唆された。これらのことを考え合わせると、桜井茶臼山古墳出土朱は奈良県産の可能性が高い。」としている。

 

また、報告書では「桜井茶臼山古墳では多量の朱が用いられたと考えている。これだけの量の朱を用いるためには、長い年月をかけて多量の朱を精製し、保管していた可能性が高い。」とある。これは水銀鉱山の鉱脈から丹砂(辰砂・朱砂)を採りだし、朱を精製することを想定している。話しは変わるが、私はマレーシアの第三の都市イポーを訪れた事がある。イポーの空港に飛行機が着陸する時、眼下に青色した小さな池を沢山見た。これらの池は錫鉱石を採掘した跡だそうだ。イポーは錫の産地として有名で、山には錫鉱山が存在するが、平地にも、河川が運んだ錫鉱石(錫石:比重7)が堆積した所があり、それを採掘している。丹砂の比重は約8で岩石の2.5倍重い、錫石と同様に河川に流された丹砂は集積する。古代においては丹砂の鉱脈を山中で探すより、河川で丹砂を採取する方が簡単だったと思われる。

 

桜井茶臼山古墳から出土した朱の産地とされる大和水銀鉱山産は、宇陀市菟田野にあった鉱山で、明治時代に露頭(地表に現れた鉱脈)が発見され採掘が始まっている。大和水銀鉱山のある芳野川流域には、大和水銀鉱山以外にも6ケ所の水銀鉱山があり、隣の宇陀川流域にも2ヶ所の水銀高山があった。芳野川・宇陀川には太古の昔から丹砂が水の澱む所に集積していたと思われる。小さなバケツ(5リットル)に丹砂を入れると、砂は岩石の約3倍の嵩になるので5000x1/3x8=1333g、約1.3kgの重量となる。桜井茶臼山古墳の200Kgの朱は、異物の混入を考えれば、小さなバケツ約300杯の丹砂があれば良い。丹砂の集積があれば数ヶ月採集できる量である。

 

『書紀』神武紀の神武東征途中の宇陀の地で、「宇陀川の朝原で水の泡がかたまりつく所があった。」「沢山の平瓮で水なしに飴を作ろう、もし飴が出来ればきっと武器を使わないで天下を平定することが出来る。」「厳瓮を丹生の川に沈めよう。もし魚が浮いて流れたら、この国を平定出来る。」とある。これらの文章は、次のように解釈することが出来る。宇陀川の流れが澱む所に丹砂が集積していた。平瓮(平底の杯)でこれをすくい、ゆすって丹砂のみを採取した。丹砂を厳瓮(御神酒瓮)に入れて400度程度に加熱すると、水銀蒸気と亜硫酸ガスが発生した。厳瓮を川に沈めると、亜硫酸ガスが水に溶け魚が死んで浮かんできた。厳瓮の底には水銀が出来ていた。この水銀を平瓮に取り出すと、水飴のようであった。宇陀川の丹砂がベンガラ(酸化鉄)でなく、本物の水銀朱であれば、国中の豪族が求めるものであり、武器を使わないで天下を平定することが出来る。「縮900年表」では、磐余彦尊(神武天皇)が宇陀の地に辿り着いたのは238年(戊午)の年である。270年に築造された桜井茶臼山古墳、神武天皇の皇后姫蹈鞴五十鈴姫命の陵に宇陀で産出する朱が200kg使われているのも当然のことである。


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68-1.歴史・考古学者は仁徳天皇の実在を認めていないのか? [68.記紀は史実に基づいて天皇陵を定めている]

Z343.仁徳陵古墳.png2019年7月6日に「百舌鳥・古市古墳群」が世界文化遺産に登録されることが決定した。日本考古学協会など学術14団体は7月23日に大阪府庁で会見し、「○○天皇陵古墳」の構成資産名に疑問を投げかけ、仁徳天皇陵古墳については、学術用語などで用いられている「大山古墳」「大仙古墳」を併記するように求めた。確かにそうするべきだと思ったが、「被葬者が確定していないなかで天皇の名をつけるのは世界に誤解を与える。」とか「仁徳天皇陵古墳は仁徳天皇の墓とはいえない。」との異論が歴史研究者から上がっていることを聞くと、逆に、百舌鳥古墳群にある日本最大規模の古墳である仁徳天皇陵古墳(大仙古墳)と古市古墳群にある日本で二番目の規模の応神天皇陵古墳(誉田御廟山古墳)の被葬者が誰であるか、未だに確定出来ていない学術のレベルを世界から疑われるのではないかと思えてくる。

 

『古事記』『日本書紀』の歴史学としての研究は、江戸時代の新井白石・本居宣長に始まり明治から昭和の多くの学者により研究された。なかでも、大正時代早稲田大学教授の津田左右吉氏は、記紀の緻密な分析を行い、神話は大和朝廷の役人が天皇の地位を正当化するために創作したものであり、伝承されてきた歴史ではない。神武天皇から応神天皇までは史実かどうか疑わしいという説をとなえた。満州事変が起こり自由主義的な言論が弾圧されると、津田氏の著書に対しても皇室の権威を冒涜するものと圧迫が加えられた。第二次大戦後、津田氏の説は華々しく蘇り、多くの学者の支持を受け史学会の常識となり、さらに「推古朝以前は歴史の対象ではない」と、記紀の記載した歴史は葬りさられてしまった。

 

近年、考古学の発掘調査が数多く行われ、『日本書紀』が史実を書いていると見直されることも増えてきた。中でも大きな発見は、埼玉県行田市にある稲荷山古墳出土の鉄剣の115文字の金象嵌の中に、「辛亥の年」「獲加多支鹵大王」と読める文字があることが判明したことだ。熊本県菊水町江田船山古墳から出土した鉄剣の74文字の銀象嵌にも「治天下獲□□□鹵大王」の文字があることが分かっていたので、「獲加多支鹵(ワタカキロ)大王」は、『日本書紀』で「幼武(わかたけ)天皇」、『古事記』で「若建(わかたけ)命」と記されている雄略天皇を指し、書紀の編年からすると雄略天皇は457年から479年であり、「辛亥の年」は471年と定められた。また、『宋書』倭国伝に478年に朝貢した倭国王の武は、雄略天皇のことであるとされていたこともあって、記紀に記載された天皇のうち、雄略天皇までの実在を認めるようになった。稲荷山鉄剣の金象嵌の文字が発見されたのは1976年である。それから半世紀近くたった現在でも、「仁徳天皇陵古墳は仁徳天皇の墓とはいえない。」と言うことは、いまだに歴史・考古学学者は仁徳天皇や応神天皇の実在を認めていないのかも知れない 。


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