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67-15.壱与と崇神天皇を結び付けた龍文透彫帯金具 [67.古墳時代は前方後円墳の時代]

Z320.葛城の古墳.png前節で掲げた「縮900年表」に対応する古墳出土の遺構・遺物の編年表(Z318)を「箸墓260編年」と呼ぶことにする。この「箸墓260編年」を通して、壱与と崇神天皇は同一人物であることを探ってみたい。奈良盆地の西側にあって、金剛山から二上山に連なる山並の東側山麓は葛城の地である。図Z320見るように葛城の北部の馬見古墳群とその周辺には前期の大型前方後円()古墳が多い。年代順に見ると、新山古墳(墳長:137m)からは埴輪Ⅰ式が、巣山古墳(204m)・宝塚古墳(119m)・ナガレ山古墳(112m)からは埴輪Ⅱ式が、新木山古墳(200m)・乙女山古墳(130m)からは埴輪Ⅲ式が出土している。馬見古墳群の中で最も古い新山古墳は、箸墓古墳より新しく、崇神天皇陵(行燈山古墳)より古い古墳である。

 

新山古墳は前方後方墳で、明治18年に後方部の竪穴石室が発見され、銅鏡34面をはじめとする管玉・車輪石・石釧・帯金具・刀剣などの遺物が多数出土した。銅鏡の中には9面の三角縁神獣鏡が含まれており、三角縁鏡の権威である福永伸哉氏の型式では、舶載A段階:1面、B段階:2面、C段階:1面、D段階3面、倣製Ⅰ段階:1面、Ⅱ段階:1面である。新山古墳は「大塚陵墓参考地」として宮内庁の管轄下となったが、昭和56年には橿原考古学研究所が宮内庁の管轄外で、後方部端を画する溝を検出し、その外側に七基の円筒棺を発見した。棺に使用した埴輪は埴輪Ⅰ式であった。新山古墳の「箸墓260編年」による年代は、埴輪Ⅰ式(260〜279年)と三角縁神獣鏡の舶載D段階・倣製Ⅱ段階(290〜379年)より、280〜290年としている。

 

新山古墳からは金銅製帯金具が出土している。この龍文透彫帯金具は中国の西晋時代(265〜316年)と類似性が高いとされている。『晋書』武帝紀の泰始2年(266年)には、「11月己卯、倭人が来たり、方物を献ずる」とあり、『書紀』神功66年(266年)の記事に『晋書』起居注の引用文として、「武帝の泰始2年10月に倭の女王が貢献した」とある。『晋書』起居注は現存していないが、266年に倭の女王・壱与が晋の武帝に朝貢したのは確かであろう。新山古墳の金銅製帯金具は壱与が晋の武帝より賜ったものと考えることができ、新山古墳の築造年代280〜290年とピッタリ合っている。

 

『書紀』神武2年の記事には、「天皇は論功行賞を行われた。・・・剣根という者を葛城国造とした。」とある。「国造」は後世の語句を使った潤色であるが、剣根が葛城の地を与えられたという史実があったと考えられる。「縮900年表」によれば、神武2年は242年にあたる。馬見古墳群の前方後円墳は、剣根およびその子孫の墓と考えられ、新山古墳に葬られたのは剣根であり、剣根が崇神天皇から金銅製帯金具を賜ったと考えることが出来る。

 

新山古墳から出土した金銅製帯金具は、壱与と崇神天皇は同一人物であることを証明している。「縮900年表」と「箸墓260編年」は、江戸時代の新井白石や本居宣長から始まって現代まで『日本書紀』を研究してきた学者が、誰も予想だにしなかった、壱与と崇神天皇が同一人物であることを証明した。「縮900年表」は、『日本書紀』の編年を解明しており、我国の古墳時代の歴史を明らかにしている。

 

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さて、私はこれまで1週間に1回ブログに投稿し、その記事を書くためにテーマを設け、古代史の調査・探究を楽しんできました。そのテーマは多岐に渡ってきましたが、ここに来て次のテーマを見つけることが出来ず、一週間に1回の投稿が難しくなりました。次回から1ヶ月2度、第1金曜日と第3金曜日に投稿したいと思います。次回は6月21日(金)です。よろしくお願い致します。

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67-16.室宮山古墳の被葬者は葛城襲津彦か? [67.古墳時代は前方後円墳の時代]

埴輪型式の編年の見直しで、「箸墓260編年」では埴輪Ⅲ式が340〜379年となり、中期の始まりが380年となった。葛城の南部、御所市にある室宮山古墳(墳長238m)は全国第16位の前方後円墳である。室宮山古墳は埴輪型式がⅢ式で、三角縁神獣鏡を出土していることから、明らかに前期の古墳であり、年代は三角板革綴短甲(350〜469年)を出土していることより、350〜379年となる。「縮900年表」では仁徳元年は381年で、中期の始まりと重なる。これからすると、室宮山古墳の被葬者は、仁徳元年にはすでに埋葬されていたことになる。

 

室宮山古墳の被葬者は、葛城襲津彦であるとする研究者が多い。それは、

『日本書紀』に引用されている『百済記』にある「沙至比跪」と襲津彦が同一人物と見られ、実在を確実視できる最古の人物と見られているからである。その記事は、神功62年、新羅が朝貢しなかった。その年襲津彦を遣わして新羅を討たせた。――百済記に述べている、壬午の年、新羅が朝貢をしなかつた。日本は沙至比跪(さちひこ)を遣わして討たせた。新羅人は美女二人を飾って、港に迎え欺いた。沙至比跪はその美女を受け入れ、反対に加羅国を討つた。・・・天皇は大いに怒られ、木羅斤資を遣わして、兵士を率いて加羅に来たり、その国を回復されたという。

 

ある説によると、沙至比跪は天皇の怒りを知って、公には帰らず自ら身を隠した。その妹が帝に仕えることがあり、沙至比跪はこっそり使いを出し、天皇の怒りが解けたかどうか探らせた。妹は夢に託し、「今日の夢に沙至比跪を見ました」と申し上げた。天皇は大いに怒られ、「沙至比跪はどうしてやってきたのだ」といわれた。妹は天皇の言葉を報告した。沙至比跪は許されないことを知って、岩穴に入って死んだという。
Z321.武内宿禰系譜.png

『書紀』は、『百済記』の記事を干支2廻り遡らせて挿入しているから、神功62年の記事は382年(壬午)で、「縮900年表」で仁徳2年にあたる。『百済記』に登場する天皇は仁徳天皇であり、沙至比跪の娘が仁徳天皇に仕えていたことになる。古代「妹(いも)」は妻・恋人を表わす敬称とされているが、娘を表す敬称でもあったという見解もある。 葛城襲津彦の娘の磐之姫は、仁徳2年に仁徳天皇の皇后となっている。これらから襲津彦と沙至比跪は同一人物であることに間違いないといえる。それならば、葛城襲津彦は仁徳天皇の時代には、生きていたことは確かであり、室宮山古墳(350〜379年)の被葬者にはなり得ない。

 

室宮山古墳は墳長238mの天皇陵に匹敵する規模であり、埴輪は円筒埴輪・朝顔形埴輪・靫形埴輪・盾形埴輪・短甲形埴輪・草摺形埴輪・蓋形埴輪・切妻造家形埴輪・四柱造家形埴輪と多種である。そして、竪穴石槨は大きくないが、立派な長持形石棺が収められている。副葬品には三角縁神獣鏡など鏡が7面、鉄剣7本、勾玉・管玉多数、その他に色々ある。天皇の怒りをかい、こっそりと埋葬された墓ではない。室宮山古墳の被葬者を葛城襲津彦とする研究者は、『百済記』の沙至比跪の名前だけを史実と認め、記事の内容は史実ではないと思っているのだろうか。


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