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67-14.「縮900年表」と天皇陵古墳の年代が合致 [67.古墳時代は前方後円墳の時代]

『書紀』崇神10年の記事に、「倭迹迹日姫命は御諸山を仰ぎ見て座りこんだとき、箸で陰部を突いて死んでしまわれた。それで大市に葬った。ときの人はその墓を名付けて箸墓という。その墓は、昼は人が造り、夜は神が造った。大坂山の石を運んで造った。山から墓に至るまで、人民が連なって手渡しに運んだ。」とある。箸墓古墳の後円部頂上に使われている石は二上山(大坂山)の山麓にある芝山(大阪府柏原市)の石が使用されており、史実が根底にあると思われる。「崇神10年」は別として、崇神天皇の時代に箸墓が築造されたと考えられる。国立民俗歴史博物館は箸墓古墳周辺から出土した土器に附着した炭化物を炭素14年代測定し、箸墓古墳の築造年代が240年から260年であると確定した。崇神天皇の時代に箸墓が築造され、その築造年代が240年から260年であるとするならば、崇神天皇の没年が通説の318年(戊寅:『古事記』記載)になることの可能性はほとんど無く、300年以前になることは確実である。

 

皇學館大学の学長であられた田中卓氏は、崇神天皇の没年は通説より干支一廻り前の258年とされている。田中氏の論拠は『住吉大社神代記』に「活目入彦命(垂仁天皇)は彌麻帰天皇(崇神天皇)の子、巻向の玉木の宮に大八嶋國御宇し、五十三年辛未に崩る。」とあることから、垂仁天皇の没年を311年(辛未)と捉え、53年前の258年を崇神天皇の没年としている。垂仁天皇の没年を干支一廻り後の371年(辛未)としたのでは、垂仁天皇の時代が百済の肖子王の時代となり、応神天皇が肖子王から馬二頭を献上されたと記載する『古事記』の記述と齟齬をきたすからであろう。田中氏は、邪馬台国は筑紫の山門郡にあったと考えておられ、壱与と崇神天皇が同時代の人であっても齟齬をきたさない。

 

Z314.天皇陵古墳編年.png私は、壱与と崇神天皇は同一人物で、崇神天皇の没年は273年(「縮900年表」)であると考えている。一方、古墳の遺構・遺物による編年から、崇神天皇陵(行燈山古墳)の築造年代を300年と編年した。崇神天皇の没年と崇神天皇陵(行燈山古墳)の築造年代には27年間の開きがある。図Z314の青線を20年引き下げると、崇神天皇陵(行燈山古墳)、景行天皇陵(渋谷向山古墳)、仲哀天皇陵(津堂城山古墳)、応神天皇陵(誉田御廟山古墳)が箸墓古墳と欽明天皇陵(見瀬丸山古墳)を結ぶ黒線に近づいてくる。青線を20年引き下げる編年を試みた。おおげさに言えば、近つ飛鳥博物館の編年からの脱却を試みたのである。

 

Z315.埴輪型式の編年.pngまず、埴輪Ⅱ式を280〜339年に、埴輪Ⅳ式を380〜469年に20年引き下げた。表Z315の上枠に近つ飛鳥博物館と筆者の埴輪型式の編年を示す。両者の最も違う点は埴輪Ⅰ式とⅡ式の型式継続期間で、両者は全く逆になっている。6305基の前方後円()墳の内、円筒埴輪・朝顔形埴輪が出土したのは1576基であり、その内埴輪型式が判明しているのは62%の977基である。表315の下枠には型式別の古墳数を載せ、それらを近つ飛鳥と筆者の型式継続期間で割った値を示している。筆者の編年では、埴輪Ⅱ式はⅢ・Ⅳ式とほぼ同じで、Ⅰ式のほぼ2倍である。それに比べ近つ飛鳥の編年では、埴輪Ⅱ式はⅢ式の1.5倍、Ⅳ式の2倍、そしてⅠ式の15倍近くになっている。このことは、近つ飛鳥編年のⅠ式とⅡ式の期間が異常であることを示しており、新しく設定した埴輪型式の編年の信憑性が高いことが確認できた。

 

Z316.天皇陵古墳編年完.pngつぎに中期の始まりを380年として、それに伴う遺構・遺物の編年の変更を行った。また、須恵器の最も古い型式TK232を380〜389年に編年し、TK73を390〜409年、ON46を430〜449年と10年引き下げた。これらの変更においては、6305基の前方後円墳で編年に矛盾がおこらないかチェックした。そして、仁徳天皇陵(大仙古墳)はON46型式の最も古い430年、応神天皇陵(誉田御廟山古墳)は埴輪Ⅳ式の最も古い380年、仲哀天皇陵(津堂城山古墳)は埴輪Ⅱ式と三角板革綴短甲より345年、景行天皇陵(渋谷向山古墳)は埴輪Ⅱ式の最も新しい340年、崇神天皇陵(行燈山古墳)は埴輪Ⅱ式の最も古い280年に編年した。図Z316に示すように『書紀』から導き出した「縮900年表」と考古学的な古墳の編年とを合致させることが出来た。

 

記紀は崇神天皇と景行天皇の御陵は山辺道にあると記載している。山辺道にある巨大前方後円墳は埴輪Ⅰ式の西殿塚古墳と埴輪Ⅱ式の行燈山古墳と渋谷向山古墳である。行燈山古墳が崇神天皇陵、渋谷向山古墳が景行天皇陵に治定されているが、幕末以前は逆であったそうだ。どちらにしろ、崇神天皇陵は埴輪Ⅱ式の初め頃、景行天皇陵は埴輪Ⅱ式の終わり頃の年代になる。埴輪Ⅱ式の初め頃が300年を遡ることになれば、田中卓氏の説のように邪馬台国の壱与は大和以外の地に居たことになるか、私の説のように壱与と崇神天皇は同一人物であることになる。埴輪Ⅱ式の編年が古代史を解明するといっても過言ではない。埴輪Ⅱ式が出土する古墳は、北は福島県から南は熊本県まで拡がっている。年輪年代測定法や炭素14年代測定法などの科学的な測定で埴輪Ⅱ式の実年代が決定される日がくることを楽しみに待っている。

 

表「縮900年表」をZ317に、「縮900年表」に対応する古墳出土の遺構・遺物の編年表を表Z318に、それで導き出された年代幅が30年以内の古墳一覧を表Z319に示した。

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Z317.「縮900年表」.png

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Z318.古墳の遺構・遺物編年完.png

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Z319-1.古墳の年代2019完.png

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Z319-2.古墳の年代2019完.png

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Z319-3.古墳の年代2019完.png

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Z319-4.古墳の年代2019完.png

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