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67-7.日本武尊の蝦夷征伐は史実 [67.古墳時代は前方後円墳の時代]

景行40年[321年]、日本武尊は蝦夷征伐に出発した。駿河の焼津で賊の火攻めにあい、伊勢神宮で倭媛命から授かった天叢雲剣で難を逃れた。相模から上総へ海を渡るとき暴風にあい、弟橘姫が海に身を投じ無事に着いた。上総から大きな鏡を船に掲げて、海路から葦浦・玉浦を回って陸奥国の竹水門に入った。蝦夷の首領は王船を見てその威勢に恐れ服従した。日本武尊は陸奥で蝦夷を平定した後、常陸・甲斐・武蔵・上野・信濃・美濃・尾張を通り帰国の途についたが、景行43年[324年]に伊勢の能煩野で病死している。図Z305の前期古墳の分布と図Z306日本武尊の東征経路図を比較すると、日本武尊の経路には前期の大型前方後円墳が存在する。

 

Z305.前期前方後円墳分布.png


Z307.入の沢遺跡.png日本武尊は宮城県石巻市近くまで北上したとされているが、宮城県の名取市(仙台市の南隣)に雷神山古墳(墳長168m:300〜360年)がある。前期前方後円墳の最北端は宮城県大崎市にある青塚古墳(墳長100m:300〜370年)である。2014年に大崎市の北25kmにある栗原市の入の沢遺跡で焼失した竪穴建物跡39棟と大溝が出土した。住居跡から二重口縁壷、珠文鏡・重圏文鏡、刀剣などの鉄製品、ガラス製小玉、水晶製棗玉、琴柱形石製品など、近畿文化の影響を受けた遺物が出土している。入の沢遺跡の年代は、出土土器が布留2式併行期で4世紀中葉の年代と見られ、二重口縁壷(280369)、琴柱(300399)水晶(310)から導く310〜370年と一致する。

 

奈良時代には大和朝廷が蝦夷を制圧するための多賀城が宮城県多賀市(仙台市の北隣)に設置されていたが、古墳前期には多賀城より北にある入の沢遺跡が蝦夷に対峙する最前線の砦であったのであろう。入の沢遺跡の竪穴建物が焼失しているのは、蝦夷の反撃にあったと思われる。景行55年[329年]の記事に「翌年、豊城命の曾孫の御諸別王が東国を治め善政をしいた。そのとき蝦夷が騒いだので兵を送り討った。蝦夷の首領はその領地の全てを献上した。こうして東国は久しく事なきを得た。」とあるのと年代的に一致する。

 

雷神山古墳・青塚古墳からは入の沢遺跡と同じ二重口縁壷が出土しており、両古墳の年代も300〜370年頃に絞り込むことができる。日本武尊の経路にある茨城県(常陸)の水戸市には水戸愛宕山古墳(墳長137m:360〜400年)、石岡市には舟塚山古墳(墳長186m:300〜360年)があり、山梨県(甲斐)の甲府市には甲斐銚子塚古墳(墳長169m:320〜360年)がある。日本武尊の東征により、大和王権は古墳前期に宮城県(陸奥)まで勢力範囲を拡げている。その先駆けとなったのが、崇神朝の豊城命による東国治世であろう。

 


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