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67-6.豊城命の東国治政は史実 [67.古墳時代は前方後円墳の時代]

前期と後期の前方後円墳の規模(墳長)別分布を図Z304に示す。前期と後期の分布を比較すると、前方後円墳の分布の範囲はほぼ同じであり、前期の段階から大和王権の覇権は古墳前期に全国(北東北を除く)に及んでいたことが分かる。大和王権が全国を支配するまでは、倭国は連合国であり、連合の盟主国は奴国・邪馬台国・大和国と変遷した。奴国は福岡平野にあり、邪馬台国は日向にあり、大和国は奈良盆地にあった。卑弥呼を共立した連合の国々は、吉備(岡山)と出雲(島根)以西の中国地方・九州地方(除く大隅)で、大和国の壱与(崇神天皇)を共立した連合の国々も邪馬台国の時代と同じであった。これが私の持論である。大和国が勢力を拡大し全国を支配する大和王権となる第一歩は、連合の国々を制圧することでなく、連合以外の国々を自分の支配下に置くことにあったと思われる。

 

Z304.前期後期前方後円墳分布.png

『書紀』崇神10年[260年]([ ]は「縮900年表」による編年)、箸墓が築造された年に、崇神天皇は四道将軍を北陸・東海・西海(四国と解釈)・丹波(丹後を含む) の諸国に派遣している。これらの国々は連合国に属していない国々であった。前期古墳の分布を見ると125mを越える前方後円墳が、北陸では福井県坂井市の手繰ヶ城山古墳(墳長128m、310〜330年)、六呂瀬山1号墳(墳長140m、330〜360年)、東海では岐阜県大垣市の昼飯大塚古墳(墳長150m、355〜365年)、西海では香川県さぬき市の富田茶臼山古墳(墳長139m、360〜400年)、丹後では京都府謝野町の蛭子山1号墳(墳長145m、330〜360年)、丹後町の神明山古墳(墳長190m、330〜400年)が築造されている。

 

『書紀』崇神48年[264年]には、「豊城命(崇神天皇の皇子)に東国を治めさせた。これが上毛野君・下毛野君の先祖である。」とある。「上毛野」は後の上野国で群馬県、「下毛野」は後の下野国で栃木県に相当する。また、景行55年[329年]、「豊城命の孫の彦狭島王は東山道十五国の都督に任じられたが病で亡くなった。東国の人民は悲しみ、密かに王の屍を盗み出し上野国に葬った。翌年、息子の御諸別王が東国を治め善政をしいた。」とある。前期古墳の分布を見ると群馬県に前期の大型の前方後円墳が多数あり、最も早い年代は前橋市の前橋八幡山古墳(前方後方墳、墳長130m:295〜305年)で、最も大きな前方後円墳は太田市の太田天神山古墳(墳長210m:360〜400年)である。この他に125mを越えた前期の前方後円墳は、高崎市の浅間山古墳(墳長172m:360〜370年)、太田市の別所茶臼山古墳(墳長165m:355〜365年)、前橋市の前橋天神山古墳で(墳長130m:310〜360年),伊勢崎市の御富士山古墳(墳長125m:360〜400年)である。大和王権が勢力を拡大したのは北関東の地であり、前方後円墳が北関東に多いということは、その証拠であると考える。


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67-7.日本武尊の蝦夷征伐は史実 [67.古墳時代は前方後円墳の時代]

景行40年[321年]、日本武尊は蝦夷征伐に出発した。駿河の焼津で賊の火攻めにあい、伊勢神宮で倭媛命から授かった天叢雲剣で難を逃れた。相模から上総へ海を渡るとき暴風にあい、弟橘姫が海に身を投じ無事に着いた。上総から大きな鏡を船に掲げて、海路から葦浦・玉浦を回って陸奥国の竹水門に入った。蝦夷の首領は王船を見てその威勢に恐れ服従した。日本武尊は陸奥で蝦夷を平定した後、常陸・甲斐・武蔵・上野・信濃・美濃・尾張を通り帰国の途についたが、景行43年[324年]に伊勢の能煩野で病死している。図Z305の前期古墳の分布と図Z306日本武尊の東征経路図を比較すると、日本武尊の経路には前期の大型前方後円墳が存在する。

 

Z305.前期前方後円墳分布.png


Z307.入の沢遺跡.png日本武尊は宮城県石巻市近くまで北上したとされているが、宮城県の名取市(仙台市の南隣)に雷神山古墳(墳長168m:300〜360年)がある。前期前方後円墳の最北端は宮城県大崎市にある青塚古墳(墳長100m:300〜370年)である。2014年に大崎市の北25kmにある栗原市の入の沢遺跡で焼失した竪穴建物跡39棟と大溝が出土した。住居跡から二重口縁壷、珠文鏡・重圏文鏡、刀剣などの鉄製品、ガラス製小玉、水晶製棗玉、琴柱形石製品など、近畿文化の影響を受けた遺物が出土している。入の沢遺跡の年代は、出土土器が布留2式併行期で4世紀中葉の年代と見られ、二重口縁壷(280369)、琴柱(300399)水晶(310)から導く310〜370年と一致する。

 

奈良時代には大和朝廷が蝦夷を制圧するための多賀城が宮城県多賀市(仙台市の北隣)に設置されていたが、古墳前期には多賀城より北にある入の沢遺跡が蝦夷に対峙する最前線の砦であったのであろう。入の沢遺跡の竪穴建物が焼失しているのは、蝦夷の反撃にあったと思われる。景行55年[329年]の記事に「翌年、豊城命の曾孫の御諸別王が東国を治め善政をしいた。そのとき蝦夷が騒いだので兵を送り討った。蝦夷の首領はその領地の全てを献上した。こうして東国は久しく事なきを得た。」とあるのと年代的に一致する。

 

雷神山古墳・青塚古墳からは入の沢遺跡と同じ二重口縁壷が出土しており、両古墳の年代も300〜370年頃に絞り込むことができる。日本武尊の経路にある茨城県(常陸)の水戸市には水戸愛宕山古墳(墳長137m:360〜400年)、石岡市には舟塚山古墳(墳長186m:300〜360年)があり、山梨県(甲斐)の甲府市には甲斐銚子塚古墳(墳長169m:320〜360年)がある。日本武尊の東征により、大和王権は古墳前期に宮城県(陸奥)まで勢力範囲を拡げている。その先駆けとなったのが、崇神朝の豊城命による東国治世であろう。

 


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67-8.三種の神器は大和王権への忠誠を示す [67.古墳時代は前方後円墳の時代]

三角縁神獣鏡は日本全国から約500面(舶載375面、仿製128面)も出土しているが、古墳から出土したことが確認されているもののほとんどが前期古墳からであり、前期古墳の指標の一つとなっている。三角縁神獣鏡が出土した古墳・遺跡の分布を図Z308左に示している。分布の中心が奈良県にあること、また、奈良県天理市の黒塚古墳からは33面、京都府山科町の椿井大塚山古墳からは32面の三角縁神獣鏡が出土し、その同型鏡が関東から九州まで全国各地から出土していることを考えると、大和王権が三角縁神獣鏡を配布したことは間違いないと思われる。『書紀』には天皇が諸国に鏡を配布した記事は無い。しかし、景行40年[321年]、日本武尊が蝦夷の討伐に東征したとき、船に大きな鏡を掲げて上総から陸奥に向かっている。鏡は権威の象徴であったのであろう。

 

Z308.三角縁神獣鏡と三種神器.png


景行12年[308年]の記事には、景行天皇が熊襲を征伐するため筑紫に向かったとき、周防の娑麼(山口県佐波)で、その国の首長が船の舳に立てた賢木に八握剣・八咫鏡・八坂瓊勾玉を飾り天皇に参じている。同様のことが、仲哀8年[345年]、仲哀天皇が筑紫を巡幸されたとき、岡県主の先祖の熊鰐と伊都県主の先祖の五十迹手は、船の舳に立てた賢木に白銅鏡・十握剣・八坂瓊勾玉を飾り、天皇をお迎えしている。三種の神器は大和王権への忠誠を示す印であったのであろう。図Z308右は三種の神器(鏡・剣・勾玉)が出土した前期古墳の分布図である。三角縁神獣鏡と三種の神器の分布は全く同じで、大和王権に忠誠を誓う象徴として地方の豪族に配布されたのであろう。

 

『書紀』成務5年[339年]の記事には「諸国に令して国郡に造長を立て、県邑に稲置をおき、それぞれに盾矛を賜って印とした。」とある。これが史実かどうか確かめるために、前期古墳から出土した盾・矛を調べてみた。盾が出土した前方後円墳はただの3基だけで、あと2基からは漆塗りの盾らしきものが出土している。盾の材質が皮製であったため、残存しているものが少ないのだと想像する。矛が出土したのは30基で、矛の材質は全て鉄矛であった。

 

盾と矛の両方が出土した前期古墳は、大阪府和泉市の黄金塚古墳(墳長85m:360〜370年)の1基のみである。黄金塚古墳の東槨から革製漆塗盾と鉄矛が、三角縁盤龍鏡・画文帯四神四獣鏡などと共に出土している。同時合葬と思われる中央槨から出土した画文帯四神四獣鏡には「景初三年」の銘文が刻まれていた。「景初三年」は邪馬台国の女王・卑弥呼が魏に朝貢し鏡百枚を賜った年である。三角縁盤龍鏡・「景初三年」銘の画文帯四神四獣鏡は大和王権から賜ったものと思われる。黄金塚古墳の南南西6Kmに、前期では和泉で最大の摩湯山古墳(墳長200m:300〜360年)がある。摩湯山古墳・黄金塚古墳は和泉の国造に繋がる王の墓であろう。


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67-9.古墳の編年の年代観は正しいか? [67.古墳時代は前方後円墳の時代]

『全国古墳編年集成』(石野博信編・1995年・雄山閣出版)には、日本列島の主要古墳の編年が、旧58ヶ国を51名の執筆者によって網羅されている。この本に掲載されている前方後円墳と、私の編年で年代幅が30年以内であった前方後円墳とを付き合わせると、296基の年代を比較することが出来た。なお、『編年集成』の古墳の年代は、前方後円墳の図のくびれ部の年代とし、私の編年の年代は年代幅の中央値とした。図Z309の横軸は私の編年による前方後円墳の年代で、縦軸は『編年集成』記載の年代である。

 

Z309.古墳編年比較.png45度の黒線は、私の編年と同じ年代観であることを示している。青丸の分布と黒線を比較すると、黒線は460年頃を境として、それ以前は分布の下限にあり、以後は分布の中心であることが分かる。460年は允恭天皇が崩御した年で、それ以前の『書紀』の編年は歴史を延長していると考えられる期間であり、それ以後は『書紀』の編年と歴史が一致していると思われる期間である。前方後円墳の始まりを大和王権の始まり捉えたとき、私の編年は大和王権の始まりを古く捉えている考古学者に近いということになる。

 

図Z309の赤線はPython(パイソン)というAI(人工知能)などを作るプログラムで計算した回帰直線(中心的な分布傾向を表す直線)である。回帰直線の右端は古墳時代の終焉を示し、『編年集成』も私も590年頃とほぼ近い。回帰直線の左端が前方後円墳の始まりを示す年代で、最古の大型前方後円墳である箸墓古墳の年代でもある。私の編年では260年で、『編年集成』では320年となっている。

 

2009年5月の考古学協会総会で国立民俗博物館(歴博)は箸墓古墳周辺から出土した土器に附着した炭化物を炭素14年代測定により、箸墓古墳の築造年代が240年から260年であると発表している。『全国古墳編年集成』が発行された1995年は、歴博が箸墓の年代を250年±10年と発表する14年前である。赤線は、この頃考古学者は箸墓の年代を320年頃と考えていたことを示している。歴博が箸墓の築造年代を発表した時の考古学会の総会は紛糾したようで、研究者にとっては“激震”であったことが図の赤線からも想像できる。発表から10年経つが、古墳時代の始まりを3世紀中ごろまで繰り上がることは認められてきたようだ。


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