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66-1.我国に鉄器が出現したのはいつか? [66.弥生時代に製鉄はなされたか?]

私は歴史好きの仲間と年2回ほど日本全国の遺跡を巡る旅を行っている。昨年の暮れは、琵琶湖周辺の遺跡を巡る旅であったが、この旅を通じて琵琶湖周辺には製鉄遺跡が多いことを始めて知った。旅の企画をしてくれた友人の計らいで、立命館大学びわこ・くさつキヤンパスの陸上競技場の地下にある、木爪原遺跡という7~8世紀の製鉄遺跡も見学することが出来た。友人の説明では、近江は鉄鉱石が産出するため、マキノ・瀬田を中心として約60ヶ所の製鉄遺跡が在り、7世紀~8世紀における近畿地方最大の鉄生産国であったそうだ。ただ、鉱石から製鉄した鉄は脆く、砂鉄から製鉄した強靭な鉄に比較して品位が劣るため、9世紀になると砂鉄製鉄に押されて急激に衰退していったそうだ。私は学生時代に金属学を学び、長年金属に関わる仕事に従事して来たこともあって、我国の製鉄の歴史に興味を覚えた。

 

2003年5月、国立歴史民俗博物館(歴博)は日用土器に付着した”おこげ“のAMS法による炭素14年代測定を行い、日用土器の編年と照らし合わせて、弥生時代の前期の始まりは従来よりも500年遡った紀元前800年頃に、中期の始まりは200年遡った紀元前400年頃になると発表した。弥生時代開始年代が500年遡ることの衝撃はあまりにも大きく、この年代感は多くの考古学者から“あまりにも古すぎる”と受け入れられなかった。その反対意見が集中したのが鉄器の問題であった。

 

我国における鉄器の出現は、弥生早期とされる福岡県糸島市の曲り田遺跡から鉄斧が、また弥生時代初頭の熊本県玉名市の斉藤山遺跡からも鉄斧が、そして弥生前期初めの福岡県津福市の今川遺跡から鉄鏃が発見され、弥生時代の当初から鉄器が存在したと考えられていた。弥生時代の始まりが紀元前300年頃と考えられていた時代、考古学者はそれを納得していた。弥生時代が紀元前800年から始まるとすると、鉄器も紀元前800年頃に我国に存在していたことになる。中国での鉄の生産は春秋末から戦国早期、紀元前6・5世紀の頃と見られており、紀元前800年頃に我国に鉄器が存在することは有り得ない話しである。弥生開始年代は紀元前800年頃との説を主張する歴博の春成秀爾氏は、弥生早期・前期に出土したとされる鉄器の出土状況を詳細に検討し、これらの鉄器が弥生早期・前期のものである確証はないと反論している。「我国に鉄器が出現したのはいつか?」、この論議が火花を散らしている。

 

Z263.鋳造鉄斧.png春成氏は「弥生時代と鉄器」の中で、我国に始めてもたらされた鉄器は袋部に二条突帯をもつ鋳造鉄斧であるとし、これらが出土した8遺跡を取り上げ、その上限年代は中期初めとしている(前期後半・前期末は採用していない)。そして、弥生中期初め~中頃つまり戦国中期後半~後期に、主として鋳造鉄斧の破片が我国に入ってきて、弥生中期中頃つまり戦国後期頃に完全品が入ってきたという、鋳造鉄斧流入の二つの段階を設定することが出来るとしている。

   1.中伏遺跡   福岡県北九州市 中期初め
 2.比恵遺跡   福岡県福岡市  中期後半
  3.上の原遺跡  福岡県朝倉町  中期中頃
  4.下稗田遺跡  福岡県行橋市  前期後半~中期中頃
  5.庄原遺跡   福岡県添田町  中期中頃
 Z264.鋳造轍鮒の分布.png 6.大久保遺跡  愛媛県小松町  前期末~中期前葉
  7.西川津遺跡  鳥取県松江市  中期
  8.青谷上寺地遺跡 鳥取県鳥取市 中期中頃~古墳初め


二条突帯鋳造鉄斧は春秋戦国時代に中国東北部の燕国の地域で製作されたものであると考えられている。朝鮮半島から出土する鋳造鉄斧は二条突帯が無いタイプがほとんどであることから、我国の二条突帯鋳造鉄斧の起源は中国東北部の燕国の領域に求められている。Z264のは戦国時代に燕国で流通した明刀銭、は二条突帯鋳造鉄斧である。

 

広島大学の野島永氏の「研究史からみた弥生時代の鉄器文化」によれば、鉄器出現期の遺跡として、扇谷遺跡(京都府丹後市)・中山遺跡(広島県広島市)・大久保遺跡(愛媛県小松町)・綾羅木郷遺跡(山口県下関市)・山の神遺跡(山口県下関市)・下稗田遺跡(福岡県行橋市)・一ノ口遺跡(福岡県小郡市)の七つの遺跡を挙げ、最古段階の舶載鉄器(鋳造鉄斧)は前期末葉頃に出現した可能性が高い。中期前葉には戦国時代後期、中国東北地方を故地とする定型化した二条突帯斧が舶載鋳造鉄器の代表格となる。すでにこの段階の鉄器の多くが二条突帯斧などの鋳造鉄器の破片を再加工したものであるとしている。

 

私は博物館を見学すると、その博物館の年代観を知るために、必ず年表を見ることにしている。最近、弥生時代の開始を紀元前800年頃とする博物館が多くなった感じがする。その新しい年代観に従えば、我国に鉄器が出現したのは、弥生前期末葉あるいは中期の初め頃に、中国の東北部にある燕国から二条突帯鋳造鉄斧、あるいはその再加工された破片が持ち込まれたことに始まると言える。弥生時代の年代観が変わる中で、鉄の歴史も大きく変わろうとしている。


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66-2.我国の鉄器の初現は紀元前4世紀後半 [66.弥生時代に製鉄はなされたか?]

北部九州の弥生中期の甕棺墓からは、鏡・青銅器・鉄・ガラスなどの遺物が出土する。甕棺の型式別編年はなされており、その相対編年は信頼がおけるが、絶対年代(暦年:西暦)はあまり信頼が置けない。甕棺と日用土器の接点は少なく、炭素14年代測定による日用土器の編年もすんなりとはあてはまらない。私は、歴博の炭素14年代による日用土器の編年と甕棺の編年をマッチングさせることを試みた(Z265)。

 

Z265-Z267.甕棺編年.png

九州大学では型式が明確な甕棺から出土した人骨の炭素14年代測定を行っている(Z266)。歴博が調べた日本産樹木の年輪年代(較正年代:西暦)と炭素14年代のグラフを、私が定めた甕棺型式の編年で区分し、人骨の炭素14年代値をその甕棺型式の範囲の中で当てはめてみた(Z267)。6個の測定置が全て、日本産樹木の炭素14年代値と合致するところにプロット出来た。このことは、甕棺の編年が合っている証であるといえる。そして、弥生時代中期の始まりを紀元前375年と定めることが出来た。甕棺の型式の年代を明確にすることで、北部九州の弥生中期・後期の墳墓に副葬された遺物の出現期・消滅期の暦年が明確にすることが出来た(図Z268)。

 

Z268.弥生中期後期の遺物.png

我国の初期の鉄器(鋳造鉄斧)の多くは、竪穴式住居に近隣する袋状土坑(貯蔵穴)から見つかる場合が多く、甕棺墓・木棺墓などの墓から出土することは無い。北部九州で城ノ越式土器(前350~300年)と鋳造鉄斧が共伴したのは、北九州市の中伏遺跡、新吉富村の中桑野遺跡、小郡市の北松尾口遺跡、朝倉市の上ノ原遺跡などであり、須玖Ⅰ式土器(前300年~200年)との共伴は、北九州市の馬場山遺跡、小郡市の一ノ口遺跡・若山遺跡・中尾遺跡・大板井遺跡、朝倉市の東小田遺跡などである。城ノ越式土器・須玖Ⅰ式土器の時代は、細形青銅武器(剣・矛・戈)と多鈕細文鏡が甕棺墓に副葬される時代である。韓国で鋳造鉄斧が出現するのは、多鈕粗文鏡が多鈕細文鏡に変わった直後で、合松里遺跡(忠清南道扶余郡)・素素里遺跡(忠清南道唐津郡)の木棺墓から細形銅剣・多鈕細文鏡と鋳造鉄斧が共伴して出土している。韓国と我国の鋳造鉄斧の形状は異なるが、出現する年代はほぼ同じであると考えられる。

 

多くの鉄器の分析を手がけられた大澤正巳氏は、城ノ越式土器と共伴した北九州市の中伏遺跡の二条突帯鋳造鉄斧の破片を分析され、白鋳鉄の表面が脱炭処理された白心加鍛鋳鉄と判定されている。愛媛大学の村上恭通氏は、『東アジア青銅器の系譜』の「東アジアにおける鉄器の起源」の中で、「燕国では戦国時代前期から鋳造鉄器が存在した。前期は硬くて脆い白鋳鉄のみ、後期になってねずみ鋳鉄・可鍛鋳鉄など利器に適した鋳鉄が増加する。しかも、後期には鋳鉄を脱炭する技術も確立されており、強靭な刃物の鍛造が可能となっている。」と述べておられる。中国の戦国時代は、紀元前403年に晋が韓・魏・趙の3つの国に分かれてから、紀元前221年に秦による中国統一がなされるまでとされている。私の編年では城ノ越式土器は350年~300年で戦国時代前期後半である、村上氏の見解に従えば、その時期燕国では脱炭の技術は確立していない。

 

『春秋時代 燕国の考古学』を著した石川岳彦氏は、小林青樹氏との共同で「春秋戦国期の燕国における初期鉄器と東方への拡散」を発表し、燕国では遅くとも紀元前5世紀前半から鉄斧などの日用利器が出現しており、朝鮮半島における鉄器の出現は紀元前5世紀後半であるとしている。従来、燕国での鉄器の出現は戦国時代の初め、紀元前400年頃と考えられていたものが、100年遡り春秋時代、紀元前500年頃と考えられるようになった。こう考えると、燕国で脱炭の技術が確立したのも100年遡り、戦国時代の初めの紀元前400年頃と考えることが出来る。弥生中期の初めの城ノ越式土器(前350~300年)と共伴した鋳造鉄器に脱炭処理がされていても齟齬はない。

 

これらを総合して考えると、我国に燕国の鉄器(鋳造鉄斧)が流入したのは、弥生中期前葉、紀元前4世紀後半(前350年~300年)、戦国時代前期後半と考える。弥生中期になって朝鮮半島から入ってきた細形青銅武器や多鈕細文鏡は威信財として墓に副葬されたが、鋳造鉄斧は墓に埋葬されることがなかった。細形青銅武器や多鈕細文鏡は王や首長の手に渡り、鋳造鉄斧は庶民の手に渡ったことを示している。

 


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66-3.王は楽浪より鉄製武器を手に入れた [66.弥生時代に製鉄はなされたか?]

鋳造鉄斧は甕棺から出土することがなかったが、鉄製の武器(剣・矛・戈)は中期後半の甕棺から出土している。最も早いのが福岡市の吉武樋渡遺跡で61号甕棺のKⅢa(前200~前100)から剣1が、次が飯塚市の立岩遺跡で35号のKⅢb(前100~前50)から剣1・戈1である。それに続くKⅢc(前50~前1)の時代には11遺跡の20基の甕棺から、素環頭大刀2、刀1、剣11、矛3、戈7、刀子1、鉇(ヤリガンナ)3が出土している。もちろん後期の甕棺からも鉄製武器が出土している。『漢書 地理志』には、「楽浪海中倭人有り、分かれて百余国と為す。歳時を以て来り献じ見ゆ」とある。甕棺墓・木棺墓などの墓に副葬された鉄製武器は、倭国の王や首長が紀元前108年に設置された楽浪郡から鏡と一緒に手に入れたものであろう。鉄製武器が倭国に入ってきたのは、弥生中期後葉(前125~1年)以降からである。

 

Z268.弥生中期後期の遺物.png

広島大学の川越哲志氏は「弥生時代鉄器の研究」と題し、平成9年度までに刊行された発掘報告書から弥生時代鉄器資料を抽出して、1998年にその研究成果を報告している。なお、本研究は歴博がAMS法による炭素14年代測定法により、弥生時代の開始を500年遡った紀元前800年頃と発表した以前にまとめられたものであり、その後の広島大学の野島永氏の見解などを基に修正(黄色)している。

  1. 弥生時代の鉄器出土遺跡は、1800遺跡、鉄器数は約8000点以上になり、研究代表者が1970年に集成した201遺跡、542点にくらべると、大幅な増加である。

  2. とくに、3世紀(後期後半、終末期)の鉄器資料が多く、この時期に全国的に鉄器化が進展したといえる。

  3. 出土分布は北部九州が最多で、東にいくほど希薄になり、国内の鉄器やその技術の伝播が北部九州を基点に東方へ拡大したことが明らかである。

  4. 北部九州は弥生時代の開始時期(中期初頭)から鉄器が導入され、中国・四国・近畿地方は中期後葉、中部・関東以北は後期中葉に導入されるが、本州北端までは及ばなかった。

  5. 弥生時代の鉄器の大部分は鍛造品であるが、西日本では中期から中国戦国時代の燕、斉の系譜を引く舶載鋳造鉄器や、その一部分を加工した国産鉄工具があり、鋳造品は関東まで伝えられた。

  6. 生産用具の鉄器化は工具から始まり、農具の鉄器化は遅れて進行した。

  7. 鉄器化の段階には地域性があり、後期になると各地で鉄器の形態、種類、組成に地域性が生じた。

  8. 鉄製武器は中国前漢の馬弩関(馬・武器が関所外に出ることの禁止)の制約から解放された舶載品が中期後葉に北部九州に出現したが、国産の大型鉄剣、鉄刀は後期後半〜終末期に日本海沿岸部に多く、後期後半には関東でも国産小型武器が生産された。

 

我国に燕国から鋳造鉄斧が伝わったのは、弥生中期前葉の紀元前350年頃であり、その鋳造鉄斧は庶民の手に渡っている。王が洛陽から鏡と一緒に鉄製武器を手に入れたのは弥生中期後葉の紀元前100年頃である。我国で製鉄(製錬)が行われるようになったのは、古墳時代後期後半の550年頃であるというのが定説で、鉄の存在を知ってから鉄を産み出すまでに900年かかり、王が鉄器の有用性を知ってからでも、650年もかかったことになる。「弥生時代に製鉄はなされたか?」この議論も火花を散らしている。


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66-4.弥生後期後半、弁辰の鉄が輸入されていた [66.弥生時代に製鉄はなされたか?]

Z-67.3世紀末朝鮮半島.png『魏志東夷伝』弁辰条には、「国には鉄が出て、韓、濊、倭がみな、従ってこれを取っている。諸の市買ではみな、中国が銭を用いるように、鉄を用いる。また、二郡にも供給している。」とある。二郡とは楽浪・帯方のことで、帯方郡が設置されたのは204年であり、弥生時代後期後葉にあたる。図Z67に示すように、私は弁辰の地は洛東江の上流、慶尚北道の地であると解釈している。『魏志東夷伝』には「辰韓には秦の役を避けて韓国に亡命してきた人々が住んでいる。」としており、中国から亡命してきた人々が製鉄技術を伝え、洛東江の上流、慶尚北道の地で3世紀に製鉄が行われていたと推察する。

 

「65-2.国宝七支刀の鉄素材の故郷」で示したように、372年、百済の肖古王は応神天皇に七枝刀を奉り「わが国の西に河があり、水源は谷那の鉄山から出ています。その遠いことは七日間行っても行きつきません。まさにこの河の水を飲み、この山の鉄を採り、ひたすらに聖朝に奉ります」と口上している。この「谷那の鉄山」が漢江上流にある月岳山付近で、その北側にある韓国忠清北道忠州市にある弾琴台土城から4世紀の鉄製錬炉11基と鉄鋌40枚が出土している。弁辰の地は月岳山の南側である。月岳山一帯の地層は花崗岩であり、その北側で鉄鉱石が採れたならば、南側でも鉄鉱石の鉱床が存在しただろうと想像する。

 

『魏志東夷伝』弁辰条の「二郡にも供給している」とは、鉄の地金であったと思われる。辰韓(慶尚北道)や弁韓(慶尚南道)を中心に出土している斧状鉄板(板状鉄製品)が、3世紀に弁辰で造られた鉄の地金であると考える。なお、この斧状鉄板は4世紀中葉ごろの百済・新羅・伽耶の墳墓や日本の古墳から出土する鉄鋌とは似て非なるものである。大澤正巳氏の「金属組織学からみた日本列島と朝鮮半島の鉄」によれば福岡の西新町遺跡、熊本県の二子塚遺跡、島根の上野Ⅱ遺跡・板屋Ⅲ遺跡、鳥取の妻木晩田遺跡、徳島の矢野遺跡、埼玉の向山遺跡などの弥生後期の遺跡から錬鉄の板状鉄製品が出土している。この板状鉄製品は弁辰の鉄で、弥生後期後半に輸入されたものと考えられる。

 

弁辰の地(洛東江の上流)で行われた製鉄は、直接製錬で錬鉄が造られたと考えるが、残念なことに製鉄遺跡は出土していない。直接製錬とは低温(1150℃前後)で錬鉄(炭素量0.3%以下)を直接取り出す、最も原始的な製錬方法である。鉄の収率が悪いので鉄の含有率の高い鉱石・砂鉄に用いられる。我国では、この錬鉄の斧状鉄板(板状鉄製品)を輸入して、900~800℃に加熱し、鍛造して武器・利器・工具を製作したのであろう。3世紀(弥生後期後葉)に全国的に鍛造品の鉄器化が進展したのは、弁辰の錬鉄を使用して鍛冶(鍛造鍛冶)が行われたと考える。ただ輸入ばかりに頼らずに、我国で製鉄(製錬)が行われていたのではないかと疑問が残る。


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66-5.我国の鉄製錬はいつ行われたか? [66.弥生時代に製鉄はなされたか?]

我国で製鉄が行われるようになったのは、古墳時代後期後半、6世紀の半ばからで、広島県東部から岡山県にまたがる古代の吉備地方であるというのが現在の定説である。現在、最古の製鉄遺跡と目されているのは、岡山県総社市のカナクロ谷遺跡、岡山県津山市の大蔵池南遺跡、広島県三次市の白ヶ迫遺跡、島根県邑南町の今佐屋山遺跡で、出土した須惠器から6世紀後半と見られている。当初の製鉄原料は朝鮮半島と同様に磁鉄鉱であったが、やがて砂鉄が使われるようになった。いわゆる「たたら製鉄」の始まりである。砂鉄は日本の各地で産出するために、製鉄が日本の各地で行われるようになった。

 

Z269.たたら製鉄炉.png我国の製鉄は19世紀半ばに高炉による製鉄技術が導入されるまで「たたら製鉄」であった。出雲の砂鉄による「たたら製鉄」は有名である。たたら製鉄では箱型の炉を使い、木炭と砂鉄を交互に投入し、炉の下部の羽口にフイゴ(蹈鞴:たたら)から送風する。炉の上部では砂鉄に含まれる酸化鉄が還元され鉄となり、炉の下部では砂鉄に含まれる酸化鉄と他の酸化物(SiO2Al2O3CaOMgOTiO2)が反応して溶融しノロ(Slag)となる。ノロには酸化鉄が多く含まれるので、鉄滓(金糞)と呼ばれている。還元された鉄は木炭と反応して炭素を吸収し鋼や鋳鉄の鉄塊となる。ノロは炉底から流れ出され、半溶融の鉄塊が炉を壊して取り出される。

 

鉄の含有率が高く酸化チタンが少ない砂鉄(真砂)の場合は、「鉧(けら)押し」と呼ばれる直接製錬法(1150℃前後)で鉧を造る。鉧は「精錬鍛冶」で鍛造されて不純物が取り除かれ錬鉄や鋼(玉鋼)となる。玉鋼からは日本刀が造られた。鉄の含有率が低く酸化チタンが多い砂鉄(赤目)の場合は、「銑(ずく)押し」と呼ばれる間接製錬法(1300℃前後)で銑(銑鉄)を造る。銑は炭素量4.3%で溶融温度が1135℃と低く鋳造され白鋳鉄となる。また、銑は「精錬鍛冶」で溶解処理されて炭素量を下げ可鍛鋳鉄・鋼・錬鉄の地金を造る。

 

弥生時代に鉄製錬が成されたという考えに対して、考古学者は否定的である。それは弥生時代の鉄製錬遺跡が発見されていないことは勿論のことであるが、それ以上に、鉄の製錬には高度の技術が必要であるとか、鉄の製錬には須恵器を焼成するくらいの高温が必要で、須恵器の生産が開始される古墳中期以前には困難であるとの考えが強いように思われる。もっと原始的な方法で、鉄鉱石から鉄を取り出すことが出来たと思うのだが。


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