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73-15.5世紀の鉄滓の製鉄工程判定は定説を忖度 [73.日本の製鉄(製錬)の始まりは何時か?]

全鉄量(T-e )が20%以上で、製鉄指標(製鉄工程判別指標:SQRT(Ti2/5+MnO*2))が0.75以上の鉄滓は、95%の信頼性でもって、製煉滓あるいは精錬滓のどちらかであると言える。これを基にして、5世紀以前に製煉滓あるいは精錬滓が出土した遺跡を求めて来た。該当したのは表Z468に示す16遺跡、34点の鉄滓であった。これらの遺跡の発掘調査報告書等を精読し、石川県の豊町A遺跡・長崎県の小原遺跡・岡山県の押入西遺跡のように混入が考えられる遺跡、広島県の小丸遺跡のように遺跡の年代が疑われる遺跡、岡山県の押入西遺跡・大阪府の森遺跡・大県遺跡のように鉄滓の年代が5世紀を超えていると判断できる遺跡は候補からは外した。また、残った遺跡の中で福岡県の新西町遺跡と島根県の関谷遺跡は、単独の遺跡で単一の鉄滓であることから候補からは外した。

 

Z468.5世紀以前の遺跡.png

5世紀代に製錬を伴なう製鉄が始められたと考える候補地として、潤崎遺跡・重留遺跡・長野A遺跡のある福岡県北九州市小倉南区の地域、窪木薬師遺跡・高塚遺跡のある岡山県総社市の造山古墳周辺地域、そして土師遺跡・陵南北遺跡のある堺市の百舌鳥古墳群の南端地域を挙げた。これら候補地に掲げた8遺跡の11点の鉄滓の分析値を見ていて気付いたのは、その内の10点が製鉄指標が0.75~1.0の狭い範囲にあること、そして、分析者はその内の8点を鍛錬滓と判定していることだ。その8点の鉄滓の私の判定は、製煉滓2点、製煉滓or精錬滓3点、精錬滓3点である。

 

分析者はこれらの鍛錬滓について、「鍛錬が高温で行われガラス化した鍛錬滓」「鉄素材の鍛接のための高熱作業時に粘土と反応して派生した鍛錬鍛冶滓」「鍛接の高温作業で排出された鍛錬鍛冶滓で、赤熱鉄素材の酸化防止の粘土汁多用」と説明されている。5世紀代に製錬を伴なう製鉄が始められたと考える証拠とする鉄滓が、製錬滓あるいは精錬滓ではなく、そのほとんどが鍛錬滓であつたならば、今まで行ってきたことが水泡に帰す。

 

私のデータベースでは、T-eが20%以上で製鉄指標が1.0~0.75の範囲の鉄滓は128点あるが、その内、分析者が製鉄工程を製煉滓・精錬滓・鍛錬滓と明確に分類し、その年代が示されているのは111点であった。それらを“5世紀~(古墳中期)、“6世紀~(古墳後期)、“7世紀~(飛鳥時代以降)と年代を3分割し、その製鉄工程を調べたのが表Z470である。なお、年代幅が“5世紀~中世のように他の世紀に渡っても、“5世紀~とするように初めの世紀に分類している。表470の左側から分るように、“7世紀~では鍛錬滓の比率が8%と私の想定5%に近い値であるが、“6世紀~では14%で、“5世紀~では82%と不自然な値となっている。

 

Z470.5世紀の製鉄工程判定.png

表470の右側は、鉄成分(T-e)、造滓成分(SiO2Al2O3CaOMgO)、製鉄指数(TiO2MnO)の年代別の平均値を示した。当たり前のことであるが、製煉滓は鍛錬滓に比べて、鉄成分が少なく、造滓成分や製鉄指数が多い。それらからすると、鍛錬滓85%の“5世紀~の鉄滓と、鍛錬滓が8%の“7世紀~の鉄滓では、鉄成分・造滓成分・製鉄指数が異なるはずである。しかし、表470の右側を見ると、鉄成分は45%~47%、造滓成分は30%~33%、製鉄指数0.85~0.871と、“5世紀~、“6世紀~、“7世紀~の年代に関係なく、ほぼ等しいことが分かる。“5世紀~の年代の鍛錬滓の比率が82%と異常なのは、分析者の判定が間違っていることが明らかである。分析者は、我が国で製錬を伴なう製鉄が開始されたのは6世紀後半であるという定説に忖度し、それ以前の時代の鉄滓に対しては鍛錬滓と判定したのではないかと邪推してしまう。


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