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73-11.最古の製鉄遺跡は何処か?小丸遺跡は疑問 [73.日本の製鉄(製錬)の始まりは何時か?]

私の集めた全国(北海道・沖縄除く)の217遺跡の718点の鉄滓から製鉄指標が0.75以上で、製錬滓あるいは精錬滓と判定した、5世紀末以前の遺跡を選び出したのが表Z468である。

Z468.5世紀以前の遺跡.png


縄文晩期とされている石川県加賀市にある豊町A遺跡の鉄滓は、砂鉄の製錬滓と判定した。加賀市豊町には中世の製鉄跡が多数あり、この鉄滓は中世のものの混入と考えられる。長崎県島原市有明町の下原下遺跡では2点の鉄滓が出土し、鉄滓が出土した層の下の層に縄文後期・晩期の遺物があり、縄文晩期の製鉄跡の可能性があると、1966年に有明町の教育委員会が報告している。鉄滓は砂鉄の製煉滓[精錬滓]と精錬滓と判定した。県教委のその後の調査で、鉄滓の出土したⅢ層の年代測定を行った結果、738年という数値が出ており、奈良時代の鉄滓であることが分かった。なお、その鉄滓の判定が分析者と異なる場合は、分析者の判定を[  ]で表記する。

 

福岡市早良区西新5丁目にある弥生中期後半の集落跡の西新町遺跡から椀形滓・鉄塊系遺物(含鉄鉄滓)・板状鉄斧が出土している。椀形鉄滓は鉱石の精練滓、鉄塊系遺物は砂鉄の精練滓[?]と判定した。一方、板状鉄斧(182x40x11mm)の始発原料は砂鉄[鉱石]と判定した。板状鉄斧は鉄素材で、鍛冶を行い鉄製品を作っても精錬滓が出来ることはない。西新町は博多湾近くであり、まさに弥生時代の朝鮮文化受け入れの津があったところである。朝鮮半島から板状鉄斧と共に製煉系鉄塊がもたらされ、それを精錬し精練滓が出来たとも考えられる。西新町遺跡の鉄滓が精錬滓であったことから、弥生時代に製煉があったとは言い切れないと思える。

 Z469小丸遺跡製鉄炉.png

広島県三原市八幡町の小丸遺跡出土の鉄滓は14点全てが始発原料が鉱石の製錬滓である。この遺跡は平成2年から平成3年に発掘調査がなされ、広島県埋蔵文化財調査センターは平成6年の発掘調査報告書で、同遺跡から出土した2基の製鉄炉を科学調査などで総合検討し、1号炉は鉄鉱石を使った3世紀の円形炉と公表し、これまでの学説から製鉄開始の年代が300年以上も遡ったことが話題となった。1号製錬炉は直径50cm、深さ25cmの円形土坑でその両側に鉄滓の詰まった円形土坑があり、さらに南東3m離れた所にも滓の入った円形土坑が2基確認されている。これらの遺構の南側斜面には滓・鉱石片・弥生土器の小破片が散布していた。

 

これに対し、国立歴史民俗博物館の藤尾慎一郎氏は「弥生時代の鉄」(平成16年)の中で、「1号炉の年代は、炉でない土坑から出土した木炭の年代(3世紀)と、南側斜面出土の弥生土器を根拠にしたもので、炉下層で見つかった木炭の年代(7世紀)は採用されていない。」と、その年代に疑問を呈している。埋蔵文化財調査センターが1号製錬炉を3世紀としたのは、地山も整形せずに、作業面も造らないという炉の築造方法が形式学的に古いということを重視したものであるようだ。これでは1号炉が3世紀のものか、7世紀のものか判断できない。

 

小丸遺跡の2号炉は、1号炉から約50m離れた地点にあり、直径45cmの円形土坑で炉の左右に幅20cmの溝が伸びていて、握り拳大の鉄滓が出土している。2号炉の年代は7世紀に比定されている。1号炉と2号炉の炉の大きさや構造はよく似ており、3百年以上の断絶があるようには見受けられない。1号炉は7世紀のものではないかと考える。


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