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71-6.仏教伝来の年は『日本書紀』に軍配 [71.聖徳太子を解けば仏教伝来の年が分かる]

聖徳太子は用明天皇と穴穂部間人皇后の長男として生まれた。聖徳太子は後世の尊称で『古事記』『日本書紀』ともに上宮厩戸豊聡耳皇子(厩戸皇子)としている。宮殿の南の上宮(桜井市上之宮)に住まわれたこと、間人皇后が厩の戸にあたられた拍子に難なく出産されたこと、一度に十人の訴えを聞かれても誤らなかったことから来ている。

 

『法王帝説』は聖徳太子の誕生については、初めの方で「池邊天皇の皇后、穴太部間人王、厩戸に出でし時に、忽ちに上宮王産れます。」とあるが、ここには生年の干支は記していない。『法王帝説』は最後の行に「上宮聖徳法王、又は法主王と云す。甲午の年に産まれし、壬午の年の二月廿二に薨逝しぬ。」と聖徳太子の生年と薨年を記している。生年も薨逝も「午」の年である。生年干支が何故最後に書かれてあるのか作為を感じる。

 

『書紀』には厩戸皇子の生年については記載がないが、蘇我馬子が用明2年(587年)に物部守屋を滅ぼした戦に、束髪於額(ひさごはな:十五、六歳の小年の髪型)の厩戸皇子が加勢したと記載している。これからすると、厩戸皇子の誕生は572年前後となるが、574年が甲午の年となり、『法王帝説』の生年干支に齟齬は起こらない。

 

Z434.法隆寺薬師如来像.png『法王帝説』には法隆寺の金堂に座す薬師像の光背銘、「池邊大宮治天下天皇(用明天皇)が病気になり、丙午年(586年)に大王天皇(推古天皇)と太子を召し、病気平癒のために薬師像を請願したが、そのまま亡くなってしまった。そこで、大王天皇と東宮聖王(聖徳太子)が丁卯年(607年)になってこれを完成した。」を掲載している。ここにも丙午の年と「午」が登場している。

 

『法王帝説』には「戊午の年の四月十五日、小治田天皇(推古天皇)、上宮王(聖徳太子)に請いて勝鬘経を講ぜしむ。その儀は僧の如し。」とあり、聖徳太子が勝鬘経を講話した年を戊午(598年)の「午」の年としている。『法王帝説』には「志癸嶋天皇(欽明天皇)の御世、戊午の年10月12日、百済国の主明王(聖明王)、始めて渡りきて仏像・経典、併せて僧等を奉る。」とあり、仏教伝来を戊午(538年)と「午」の年としている。

聖徳太子薨逝 勝鬘経講話 薬師像請願 聖徳太子誕生 仏教伝来

   壬午     戊午    丙午    甲午    戊午

  622年   598年  586年  574年  538年

 

聖徳太子薨逝・勝鬘経講話・薬師像請願・聖徳太子誕生・仏教伝来の全てが「午」の年である。干支では「午」の年は12年ごとに訪れるが、あまりにも出来すぎた「午」の年である。これらの「午」は、聖徳太子が厩戸皇子と呼ばれていたこと、薨逝した年が壬午であったこと、父の用明天皇が病気平癒を願って薬師像請願したのが 丙午の年であったことから、『法王帝説』は聖徳太子の誕生を甲午と推定し、勝鬘経講話の戊午の年と、仏教伝来の戊午を創作したのだと考える。仏教伝来は、欽明13年(壬申:552年)10月に、百済の聖明王が仏像と経論を献じたと記載している『書紀』に軍配を挙げる。


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