70-7.『書紀』α群の述作者は唐人の続守言ではない [70.新元号「令和」の深層]
「甲類九州風土記」と『日本書紀』との先後関係を明らかにするために、視点を変えて『書紀』の述作者を明らかにすることから試みる。森博達氏は、漢文で書かれている『書紀』の言葉と表記(音韻・語彙・語法)を分析し、『書紀』30巻をα群・β群・巻30に三分した。α群は唐人が正音・正格漢文で執筆し、β群は倭人が倭音・和化漢文で述作したとしている。
そして、α群は持統朝(687~696年)に書かれたとし、α群B1(雄略紀~崇峻紀)の述作者は、660年の唐と百済の戦いで百済の捕虜となり、661年に献上されて来朝し、音博士(漢音による音読法を教える)として朝廷に仕えた唐人の続守言(しょくしゅげん)、α群B2(皇極紀~天智紀)を唐人の薩弘恪(さつこうかく)としている。また、β群(神代・神武紀~安康紀・推古紀~舒明紀・天武紀)は文武朝に山田史御方が撰述したとしている。
『日本書紀』欽明13年(552年)の仏教伝来の記事の仏を広く礼拝する功徳をのべた文章に、唐の義浄が長安3年(703年)に漢訳した『金光明最勝王経』が引用されている。552年の記事に703年に漢訳された経文が引用されており、年代に齟齬があることから仏教伝来の記事の信憑性が疑われている。
『日本書紀』
「是法於諸法中、最爲殊勝。難解難入。周公・孔子、尚不能知。此法能生無量無邊福德果報、乃至成辨無上菩提」
「この法は諸法の中で最も勝れております。解かり難く入り難くて、周公・孔子もなお知り給うことが出来ないほどでしたが、無量無辺の福徳果報を生じ、無情の菩提を成し。」
『金光明最勝王経』
「金光明最勝王経、於諸経中 最爲殊勝。難解難入。聲聞獨覚、所不能知、此経能生無量無邊福德果報 乃至成辨無上菩提」
森博達氏の説からすると、この『金光明最勝王経』が引用されている欽明紀はα群B1に属し、その述作者は唐人の続守言で持統朝(687~696年)に書かれたことになる。森氏は、続守言は692年12月14日から700年6月14日までの間に引退もしくは死亡したと推測している。持統朝には『金光明最勝王経』は成立しておらず、森博達氏の説は成り立たないと思う。
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