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70-1. 大伴旅人が催した「梅花の宴」 [70.新元号「令和」の深層]

平成31年4月1日に新元号「令和」の発表が行われた。「令和」の典拠は『万葉集』の「梅花の歌三十二首并せて序」の序文にある「初春の月にして気淑よく風らぎ」から二文字をとったものであった。この序文を書いたのが大伴旅人である。大伴旅人は728年から730年11月まで大宰府長官を勤めたが、730年(天平2年)の正月に、管轄下の国司や高官を招いて「梅花の宴」を開いた。出席者の一人が筑紫守であった山上憶良である。その序文の全文を紹介する。

 

「天平二年の正月の十三日に、師老の宅に萃まりて、宴会を申ぶ。時に、初春の月にして、気淑く風ぐ。梅は鏡前の粉を披く、蘭は珮後の香を薫す。しかのみにあらず、曙の嶺に雲移り、松は羅を掛けて蓋を傾く、夕の岫に霧結び、鳥はうすものに封ぢらえて林に迷ふ。庭には舞ふ新蝶あり、空には帰る故雁あり。

ここに、天を蓋にし地を坐にし、膝を促け觴を飛ばす。言を一室の裏に忘れ、衿を煙霞の外に開く。淡然自ら放し、快然自ら足る。もし翰苑にあらずは、何をもちてか情を述べむ。詩に落梅の篇を紀す、古今それ何ぞ異ならむ。よろしく園梅を賦して、いささかに短詠を成すべし。」

 

現代語訳、「天平2年の正月の13日、師老(大伴旅人)の邸宅(太宰府)に集まって宴会を行った。折しも、初春の佳き月で、空気は清く澄みわたり、風はやわらかくそよいでいる。梅は佳人の鏡前の白粉のように咲いているし、蘭は貴人の飾り袋の香にように匂っている。そればかりか、明け方の山の峰には雲が行き来して、松は雲の薄絹をまとって蓋(きぬがさ)をさしかけたようであり、夕方の山洞には霧が湧き起こり、鳥は霧の帳(とばり)に閉じこめられながら林に飛び交っている。庭には春に生まれた蝶がひらひら舞い、空には秋に来た雁が帰って行く。

 

そこで一同、天を屋根とし、地を座席とし、膝を近づけて盃をめぐらせる。一座の者みな恍惚として言を忘れ、雲霞の彼方に向かって、胸襟を開く。心は淡々としてただ自在、思いは快然としてただ満ち足りている。

ああ文筆によるのでなければ、どうしてこの心を述べ尽くすことができよう。漢詩にも落梅の作がある。昔も今も何の違いがあろうぞ。さあ、この園梅を題として、しばし倭の歌を詠むがよい。」(『新版 万葉集 ― 現代語訳付き』、伊藤 博、角川ソフィア文庫、引用) 。なお今後、「梅花の歌三十二首并せて序」の序文を「梅花の宴序」と表記する。

 

「梅花の宴序」の「もし翰苑にあらずは、何をもちてか情を述べむ」について現代語訳する人のほとんどが、「文筆(詩歌・詩文)によるのでなければ、どうしてこの心を述べ尽くすことができよう。」と約している。訳文には全くの違和感がないが、『翰苑』は太宰府天満宮が保持し、国宝となっている中国唐時代の書籍であり、上記の現代語訳が大伴旅人の気持ちを表しているかといえば疑問が残る。もっと深い意味がこめられているように感じる。


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