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69-16.桑原遺跡の八角形墳は中臣鎌足の初葬墓 [69.須恵器の型式をAIで判定する]

Z424.阿武山古墳と桑原遺跡.png飛鳥Ⅱ(Ⅲ-1、TK217新)の事例は少ない。他にないかと探して、行き当たったのが桑原遺跡である。桑原遺跡は中臣鎌足の墓ではないかと考えられている阿武山古墳のある阿武山の南西麓にある。A7号は無袖の横穴式石室を伴う小さな方墳で、石室が墳丘いっぱいを占め、奥壁が北側の墳丘裾の近くまである 。石室内からは、H坏身5点、G坏蓋10点が出土している。H坏身のAIによる全自動型式判定ではNo13が83%と最高得点で、Ⅲ-1(TK217新)の飛鳥Ⅱの年代の須恵器と判定した。ちなみに、G坏比率は67%で飛鳥Ⅱの値には少し足らなかった。

 

八角形墳のC3号墳は中臣鎌足の墓の可能性を指摘する声もある。C3号墳の石室からは、H坏身が1点とG坏蓋が5点出土している。H坏身のAI判定では、No13が100%(8点満点中8点)でⅢ-1(TK217新)の飛鳥Ⅱの年代の須恵器であった。ちなみに、G坏比率は83%で飛鳥Ⅱの範疇である。

 

八角形墳の天皇陵は舒明天皇陵(641年没)・天智天皇陵(671年没)・天武天皇陵(686年没)であり、また斉明天皇(661年没)の墓ではないかと考えられている牽牛子塚古墳も八角形墳である。C3号墳が八角形墳であることからして、飛鳥Ⅱの年代は、八角形墳が築かれ年代7世紀第3四半期の時代を示唆するものであった。私は飛鳥Ⅱ(Ⅲ-1、TK217新)の年代を640~669年としており、ピッタリあっている。

 

Z425.阿武山古墳の冠帽と玉枕.png『書紀』には中臣鎌足が薨去し、藤原の姓を賜ったのは天智8年(669年)とあり、八角形墳のC3号墳は中臣鎌足の初葬墓であった可能性が高いと思われる。冠帽や玉枕が出土し、中臣鎌足の墓ではないかと考えられている阿武山古墳からもH坏身1点とH坏蓋3点が出土している。H坏身のAI判定はNo12とNo13が100%(8点満点中8点)で、Ⅱ-(TK217古)またはⅢ-1(TK217新)の区別ができなかった。


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