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69-11.飛鳥時代前半の須恵器編年は混沌 [69.須恵器の型式をAIで判定する]

 須恵器の編年は、生産地である陶邑窯跡群から出土した須恵器に基づいて田辺昭三氏や中村浩氏により成し遂げられた。一方、推古天皇から始まる飛鳥時代、7世紀の須恵器の編年については、消費地である飛鳥・藤原京から出土した須恵器に基づいて、西弘海氏によって飛鳥編年が提唱され、多くの考古学者の間で使用されている。飛鳥編年では7世紀の須恵器を飛鳥Ⅰから飛鳥Ⅴの五段階に別けている。飛鳥編年では、飛鳥Ⅰから坏蓋には珠形のつまみをもち端部にかえりのあるG坏と呼ばれるものが登場し、従来の坏身にかえりのあるH坏は減少して、飛鳥Ⅲの段階では坏の全てがG坏となることに注目している。G坏比率「G坏蓋/(H坏身+G坏蓋)」を各型式の標式資料でみると、飛鳥Ⅰが48%、飛鳥Ⅱが77%、飛鳥Ⅲが100%になっている。

Z406.H坏とG坏.png

一方、中村編年でみると7世紀の須恵器は、Ⅱ-5・Ⅱ-6・Ⅲ-1・Ⅲ-2の段階に相当する。中村氏の『和泉陶邑窯出土須恵器の型式編年』でみると、Ⅱ-5・Ⅱ-6の段階ではG坏が全く存在せずH坏のみであり、Ⅲ-1・Ⅲ-2の段階ではH坏が全く存在せずG坏(台付き坏除く)のみである。中村編年ではH坏とG坏が共存する飛鳥Ⅰと飛鳥Ⅱに相当する時期が無いのである。7世紀(飛鳥時代)の須恵器の編年において、7世紀後半(飛鳥Ⅲ、Ⅲ-2)以降の編年はほとんどの学者の意見が一致しているが、7世紀前半の編年については様々な説が並立しているのは、このためであると考える。


『和泉陶邑窯出土須恵器の型式編年』のⅡ-6とⅢ-1の図面を見ていて、TG17窯・TG64窯・TG206窯が両者の型式に登場していることが分った。Ⅱ-6型式とされている前記3窯の坏身の外径の平均は103㎜、残りの窯の外径は117mmと大きく異なっている。これらより、TG17窯・TG64窯・TG206窯の坏の型式はⅢ-1とする方がよいと思われた。こう考えると、生産地の陶邑でⅢ-1の時代にH坏が生産されていたことになり、消費地の飛鳥・藤原京から出土するH坏と整合性がとれる。


Z407.飛鳥編年と中村編年.png飛鳥編年においては、その指標に坏の外径・法量(容量)が用いられる。この指標を用いて、飛鳥編年と中村編年の突合せを行ってみた。飛鳥編年の飛鳥Ⅰの標式資料は、川原寺SD02(資料数3)、山田寺整地層(13)、甘樫丘東麓遺跡焼土層(6)、甘樫丘東麓遺跡SK184(8)、飛鳥池遺跡灰緑色粘砂層(8)で、飛鳥Ⅱの標式資料は、坂田寺SD100(1)、水落遺跡貼石遺構(1)、難波宮北西部(4)である。中村編年はⅡ-5(15)、Ⅱ-6(8)、Ⅲ-1(11:TG16TG64TG205)とした。横軸を坏の外径、縦軸を坏の容量(外径x器高)として、飛鳥編年・中村編年の坏の値をプロットした。が飛鳥Ⅰ、●が飛鳥Ⅱ、がⅡ-5、がⅡ-6、▲がⅢ-1である。Z407から飛鳥Ⅰに対応するのはⅡ-で、薄水色の枠内(外径㎜:105132、容量㎠:3048)であることがわかる。飛鳥ⅠはⅡ-6(TK217古)、飛鳥ⅡはⅢ-1(TK219新)と考える。


 


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