69-9.藤ノ木古墳の被葬者は誰か? [69.須恵器の型式をAIで判定する]
藤ノ木古墳の玄室から出土した須恵器(Z396)は、はそう2点・無蓋高坏7点・有蓋高坏9点・同蓋14点・台付長頸壺3点・同蓋3点・長頸壺1点・器台1点の須恵器が出土している。なお、左列中央の坏身に見えるのは有蓋高坏の坏身部分である。ガウス曲線による型式判定(黒線)をおこなうと、はそう(Z397)はNo10(左上9-11,右上10,左下9-11,右下10-13) 、無蓋高坏(Z398)はNo10(9-11,10-12,9-11,9-10)、有蓋高坏(Z399)はNo10(10,10-11,9-11,8-11)である。須恵器の型式はNo10のTK43(Ⅱ-4)と判定でき、学者の判定と一致している。
藤ノ木古墳の石棺からは、衣服の上からさらに4重の布で包まれた2体の成人男性の人骨が出たことから、その被葬者について議論が沸騰した。白石太一郎氏は副葬遺物の金銅製鞍金具は東アジアで発見されているものでは最高級のものである、金銅装の大刀は伊勢神宮の神宝玉纏大刀と共通の様式であることなどから、被葬者は大王家の大王以外の男性、すなわち皇子であると推測されている。
白石氏は6世紀第4四半期頃(須恵器TK43)で、二人の有力な皇子がほぼ同時に没する出来事としては、用明天皇没後の587年の皇位継承をめぐる争いで、物部守屋大連と組んで皇位につこうとした穴穂部皇子(欽明天皇の皇子)と宅部皇子(宣化天皇の皇子)が蘇我馬子大臣に殺されたことを取り上げ、藤ノ木古墳の被葬者はこの二人の皇子であるとしている。なお、TK43の年代を私は560~589年としており、穴穂部皇子と宅部皇子が暗殺された年代とピッタリあっている。
法隆寺の高田良信氏は藤ノ木古墳が発掘された直後、法隆寺が保管しているさまざまな時代の文章に、ミササキとか陵山(みささぎやま)などと呼ばれていた藤ノ木古墳についての記載があること、藤ノ木古墳の近くに陵堂があったこと、江戸時代には崇峻天皇御陵として伝えられていたことなどを発表している。藤ノ木古墳の玄室からは江戸時代の灯明皿が出土している。このことと、未盗掘であったことを重ね合わすと、近世に至るまでこの石室内で被葬者に対する供養が行われていたと考えられ、高田氏の話と符合する。驚いたことに、法隆寺の行事として毎年11月3日に崇峻天皇御忌の法要が聖霊院で行われており、以前は藤ノ木古墳でも法要が行われていたそうだ。藤ノ木古墳の被葬者が崇峻天皇であるという伝承を、法隆寺は現在でも受け継いでいる。
崇峻天皇が蘇我馬子に暗殺されたのは592年であり、TK43の年代とも合っている。ただ、『日本書紀』は崇峻天皇の御陵は倉梯岡陵(奈良県桜井市倉橋)とし、『古事記』も倉椅岡のほとりとしている。桜井市倉橋にある赤坂天王山1号墳は、江戸時代には崇峻天皇の御陵みられていた。一辺約45mの方墳で、埋葬施設は全長15mの両袖式の横穴式石室である。玄室は長さ6,3mx幅3.2mx高4.2mがあり、玄室には二上山の白色凝灰岩で刳抜式家形石棺が一基据えられている。玄室・石棺は藤ノ木古墳と良く似ており、6世紀後半の古墳と見られている。赤坂天王山1号墳は地所・規模・形態・年代からみて、歴史学者・考古学者の間では崇峻天皇陵として有力視されている。
「68-10.記紀が定めた天皇陵は規模・年代に齟齬は無い」で述べたように、天皇陵の治定には古墳の規模や形態、埴輪や須恵器の年代からみて齟齬がある御陵が少なからずあるが、記紀が記載した陵墓の地には、規模・形態・年代に齟齬をきたさない古墳が存在しており、記紀が記載した陵墓の地は正確であった。これからすると、藤ノ木古墳が崇峻天皇陵とはならないと思われる。法隆寺はいつから藤ノ木古墳の被葬者を崇峻天皇とするようになったのであろうか謎は残る。
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