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68-6.河内大塚古墳は未完成の雄略天皇陵 [68.記紀は史実に基づいて天皇陵を定めている]

Z351.天皇在位と墳丘長.png私は、十河良和氏の河内大塚古墳が未完成の古墳であることは賛同するが、その年代が6世紀中頃で安閑天皇の御陵として造られたということには賛同できない。古墳規模が全国第5位の河内大塚古墳が、前方後円墳を陵墓とする天皇の中で最も短い在位2年の安閑天皇の陵墓であるという説は、全く納得が出来ない。在位年数と古墳規模は全く関係ないと考えているのだろうか。表Z351が示すように、在位が長い天皇陵の規模が大きく、在位の短い天皇陵の規模は小さいことから、天皇陵の築造は寿陵であったことが分かる。なお、Z351の天皇陵は、仲哀陵を津堂城山古墳、雄略陵は河内大塚古墳、仁賢陵を岡ミサンザイ古墳、継体陵を今城塚古墳、宣化陵を平田梅山古墳、欽明陵を見瀬丸山古墳にしている。

 

河内大塚古墳は後円部の盛土がほぼ出来上がり前方後円墳の形も整っているにも関わらず、前方部の盛り土がなく周濠も浅いことから、寿陵築造のシステムが分かる。天皇が即位すると、墓所を選び後円部の築造を始める。天皇が崩御されると後円部の大きさに釣り合った墳形を決め、周濠を掘りながら前方部の盛り土を行う。基本的には、在位年数が長いほど古墳の規模は大きくなるが、在位年数が少ない場合は、天皇崩御後に後円部の盛り土も行い一定の規模は確保する。在位年数と古墳規模は概ね比例すると思う。

 

未完成の河内大塚古墳が雄略天皇の陵墓として造られたことを証明する記事が『書紀』『古事記』に記載されている。『書紀』によると、雄略天皇が崩御すると第3子であった清寧天皇が即位した。清寧2年、播磨国司の伊予久目部小楯が明石で、雄略天皇に謀殺された従兄弟の市辺押磐皇子の子供の億計と弘計を発見した。清寧天皇は子供が無かったので宮中に引取り、億計を皇太子とし弘計を皇子とした。清寧5年、清寧天皇が亡くなると、弟の弘計は兄の皇太子であった億計(後の仁賢天皇)から天皇の座を譲られ顕宗天皇に即位した。

 

顕宗2年、顕宗天皇は億計皇太子に「わが父王は罪なくして雄略天皇に殺され、屍を野良に捨てられた。仕返しに雄略天皇の墓を壊し、遺骨を砕いて投げ散らしたい。」と言われた。皇太子は「雄略天皇は天下を照臨され、都・田舎の人はみな喜び仰いだ。私たち兄弟は清寧天皇から厚い寵愛と深い恩を受けた。雄略天皇は清寧天皇の父である。陵を壊したりすれば、祖霊に仕えることも出来ないし、天下に臨み人民を子とすることも出来ない」と諫めた。そこで、民を使役することをやめられたとある。

 

雄略天皇は丹比高鷲の地を陵墓の地と定め、陵として後円部の築造を行っていた。雄略天皇が亡くなると清寧天皇は、立派な御陵を造ろうと、前方後円墳の形を決め、周濠を掘って前方部の盛り土を始めた。清寧天皇は在位5年で崩御されたときは、雄略天皇の御陵は未完成であった。その後の顕宗天皇は、雄略天皇への恨みもあって、民を使役し陵墓を完成させることも、埴輪を立てることもしなかった。

 

こう考えると、河内大塚古墳が雄略天皇陵であり、古墳規模が全国第5位であるにもかかわらず、未完成であるこが理解できる。「縮900年表」では、第21代の雄略天皇は在位23年で没年は486年である。私の遺構・遺物の「箸墓260編年」では古墳後期の始まる横穴式石室の登場は470年からであり、河内大塚古墳にある「ごぼ石」が横穴式石室の天井石があったとしても雄略天皇陵と言える。


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