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68-4.古墳規模全国第5位の河内大塚古墳の被葬者は誰か? [68.記紀は史実に基づいて天皇陵を定めている]

記紀に書かれた文字数のベスト5を見ると、雄略天皇陵の墳丘長が抜けている。表から推察するに雄略天皇陵は墳丘長300m以上の規模である前方後円墳であることが分かる。しかし、現在雄略天皇陵に治定されているのは直径76mの円墳である高鷲丸山古墳(羽曳野市)である。宮内庁は明治18年に丸山古墳の東南東約100mの位置にある方墳の平塚古墳と合わせて前方後円形に修復され、両者を合わせて雄略天皇陵と治定している。『日本書紀』『古事記』共に、雄略天皇の御陵は河内の丹比高鷲にあると記している。雄略天皇陵に治定されている高鷲丸山古墳は、現在の羽曳野市高鷲地区の中心から北0.8kmのところにある。

 

羽曳野市高鷲地区の中心から北西1.3kmに河内大塚古墳がある。河内大塚古墳は墳丘長335m、後円部径185m、前方部幅230m、造出は無く、円筒埴輪もない。現在宮内庁が陵墓参考地として管理している。河内大塚古墳は所在地が記紀の記載通りで、墳丘長335mは全国第5位の規模で、Z347-3のように文字数第2位の雄略天皇のところにピッタリ当てはまる前方後円墳である。河内大塚古墳の前方後円墳の形状はきれいに保っているものの、前方部の高まりはなく平坦地となっている。中世には城塞が築かれていたが、織田信長の河内攻めで城は破却され、その後、前方部には大塚村の集落が形成されていた。河内大塚古墳が陵墓参考地となったのは大正14年で、大塚村の集落は順次移転していった。江戸時代の陵墓の治定時には、河内大塚古墳は陵墓の対象とならなかったのであろう。

 

Z349.河内大塚古墳.png

伝承では、河内大塚古墳は平安時代の皇族・阿保親王の墓とされているが、これは論外である。また、江戸時代には推古11年(603年)に亡くなった聖徳太子の兄である来目皇子の墓との説も出ている。603年と言えば、前方後円墳が築かれなくも無いが、来目皇子の墓は埴生山岡上とされており、河内大塚古墳は平地にあると否定されている。明治になって吉田東伍が河内大塚古墳は雄略陵であるとの見解を示し、戦後においても1970年頃に森浩一氏をはじめ、多くの学者が同調している。

 

1976年に稲荷山鉄剣の金象嵌の文字が発見され、雄略天皇の実在が確信されると、河内大塚古墳は雄略陵であることに確定するのかと思うと、風向きは変わってしまう。『宋書』倭国伝に登場する、478年に朝献した倭国王・武が雄略天皇であるとするならば、雄略陵の築造は5世紀末の中期古墳になると考えられた。しかし、河内大塚古墳の後円部の南部斜面に露出している巨岩の「ごぼ石」が横穴式石室の天井石と考えられ、そして墳丘に埴輪が全くないことから、見瀬丸山古墳のように埴輪が樹立されなくなった段階の後期後半の古墳とみなし、6世紀中頃から後半にあたると考えられるようになり、河内大塚古墳の雄略陵説は葬りさられた。


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