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68-3.天皇陵の規模は在位年数と関係している [68.記紀は史実に基づいて天皇陵を定めている]

天皇陵古墳の一覧表を見ていて、在位年数が長いほど古墳規模が大きく、在位年数が短いほど古墳規模が小さい傾向があるとが分かった。しかし、ここで言う在位年数は、書紀に記載された年数ではなく、書紀の編年を900年縮めた「縮900年表」による在位年数である。「縮900年表」が認知されていない現在、いくら声高に天皇の在位年数と墳丘長は関連していると騒いでも、それは信用されないであろう。そうかと言って百歳以上の天皇が何人も存在する『書紀』の編年を採用するわけにもいかない。そこで思いついたのが、記紀に書かれた各天皇の記事の漢字文字数と墳丘長の関係を比較することだ。文字数が多いということは、在位年数が長いことに通じるからだ。

 Z346.文字数と墳丘長.png

Z346に記紀に書かれている文字数を示す。『日本書紀』には、編纂時に百済記等から挿入された記事があり、漢字の全てがその天皇の記事でないという欠点がある。『古事記』には仁賢天皇から欽明天皇の間は、宮・御子・御陵について書かれ、在位中の出来事は書かれていない欠点があった。そこで、『日本書紀』と『古事記』の文字数の合計と墳丘長とを比較した。ただし、『古事記』の仁賢天皇から欽明天皇の文字数は5倍して加算するという補正を行っている。また、天皇陵の墳丘長で、仲哀天皇陵は津堂城山古墳、継体天皇陵は今城塚古墳の墳丘長としている。

 

Z347-1,文字数と墳丘長.pngZ347-1に文字数ベスト5とワースト5について、文字数と在位年数・墳丘長を比較した。文字数と在位年数は大きく関係していいることが分かる。文字数と墳丘長の関係で最も異常な値を示したのが、文字数でトップの欽明天皇陵の平田梅山古墳である。墳丘長140mはワースト5に相当する値である。欽明天皇陵を見瀬丸山古墳と考える研究者は多い。欽明天皇の陵墓は『書紀』に檜隈坂合陵と記され、推古20年(612年)の記事には「皇太夫人堅塩媛を檜隈大陵に改葬した。この日、軽の往来で誄(しのびごと)の儀式を行った。」とある。この「軽」の地は、見瀬丸山古墳の北側の橿原市大軽町とされ、町内には飛鳥時代の軽寺跡がある。平成3年、見瀬丸山古墳の石室の内部の写真が新聞に公表され、石室には二つの石棺が安置されていることが確認された。なお、採集された須恵器片はいずれもTK43型式のものであった。見瀬丸山古墳は墳長が全国第6位の310mで、石室規模・二つの石棺や須恵器TK43の年代から欽明天皇の陵墓と考えられる。

 

見瀬丸山古墳を欽明天皇陵とすると、欽明天皇陵と治定されていた平田梅山古墳は宣化天皇陵と比定できる。見瀬丸山古墳と平田梅山古墳の間は0.8kmである。平田梅山古墳は墳丘長が140mでワースト5の範囲であり、出土した須恵器は見瀬丸山古墳と同じTK43で時代も合っている。江戸時代の治定において、見瀬丸山古墳は荒廃が進み前方後円墳とは認識されず、後円部のみを円墳と見られ、石室内に二つの石棺があったことから天武・持統陵(合葬)と間違って比定されたため、欽明陵も宣化陵も間違うはめになったのであろう。なお、天武・持統陵は確かな証拠が出たため、野口王墓古墳(八角墳)に明治13年に治定変更されている。

 

Z347-2,文字数と墳丘長.png欽明陵を見瀬丸山古墳、宣化陵を平田梅山古墳としてZ347-2に書き改めた。明らかに在位年数と墳丘長の間に関係があることが分かる。各天皇の在位年数と墳丘長の関係を見ていて、気になったのが仁賢陵である。仁賢陵は墳丘長122mのボケ山古墳に治定されており、埴輪Ⅴ式で考古学的な齟齬はない。仁賢天皇の在位年数は11年で、墳丘長122mは規模が小さいように感じられる。仁賢陵は仲哀陵に治定されていた岡ミサンザイ古墳(墳丘242m、埴輪Ⅴ式)に比定する。ボケ山古墳と岡ミサンザイ古墳の間は1kmである。江戸時代の天皇陵の治定において、津堂城山古墳が荒廃していたために、仲哀陵に岡ミサンザイ古墳が間違って治定された。そのため仁賢陵も間違った治定にならざるを得なかったのであろう。これまでに見直した天皇陵は、仲哀陵を津堂城山古墳、仁賢陵を岡ミサンザイ古墳、継体陵を今城塚古墳、宣化陵を平田梅山古墳、欽明陵を見瀬丸山古墳にしている。見直した後の天皇陵の一覧はZ348である。

Z348.天皇陵古墳見直し1.png

 


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