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67-16.室宮山古墳の被葬者は葛城襲津彦か? [67.古墳時代は前方後円墳の時代]

埴輪型式の編年の見直しで、「箸墓260編年」では埴輪Ⅲ式が340〜379年となり、中期の始まりが380年となった。葛城の南部、御所市にある室宮山古墳(墳長238m)は全国第16位の前方後円墳である。室宮山古墳は埴輪型式がⅢ式で、三角縁神獣鏡を出土していることから、明らかに前期の古墳であり、年代は三角板革綴短甲(350〜469年)を出土していることより、350〜379年となる。「縮900年表」では仁徳元年は381年で、中期の始まりと重なる。これからすると、室宮山古墳の被葬者は、仁徳元年にはすでに埋葬されていたことになる。

 

室宮山古墳の被葬者は、葛城襲津彦であるとする研究者が多い。それは、

『日本書紀』に引用されている『百済記』にある「沙至比跪」と襲津彦が同一人物と見られ、実在を確実視できる最古の人物と見られているからである。その記事は、神功62年、新羅が朝貢しなかった。その年襲津彦を遣わして新羅を討たせた。――百済記に述べている、壬午の年、新羅が朝貢をしなかつた。日本は沙至比跪(さちひこ)を遣わして討たせた。新羅人は美女二人を飾って、港に迎え欺いた。沙至比跪はその美女を受け入れ、反対に加羅国を討つた。・・・天皇は大いに怒られ、木羅斤資を遣わして、兵士を率いて加羅に来たり、その国を回復されたという。

 

ある説によると、沙至比跪は天皇の怒りを知って、公には帰らず自ら身を隠した。その妹が帝に仕えることがあり、沙至比跪はこっそり使いを出し、天皇の怒りが解けたかどうか探らせた。妹は夢に託し、「今日の夢に沙至比跪を見ました」と申し上げた。天皇は大いに怒られ、「沙至比跪はどうしてやってきたのだ」といわれた。妹は天皇の言葉を報告した。沙至比跪は許されないことを知って、岩穴に入って死んだという。
Z321.武内宿禰系譜.png

『書紀』は、『百済記』の記事を干支2廻り遡らせて挿入しているから、神功62年の記事は382年(壬午)で、「縮900年表」で仁徳2年にあたる。『百済記』に登場する天皇は仁徳天皇であり、沙至比跪の娘が仁徳天皇に仕えていたことになる。古代「妹(いも)」は妻・恋人を表わす敬称とされているが、娘を表す敬称でもあったという見解もある。 葛城襲津彦の娘の磐之姫は、仁徳2年に仁徳天皇の皇后となっている。これらから襲津彦と沙至比跪は同一人物であることに間違いないといえる。それならば、葛城襲津彦は仁徳天皇の時代には、生きていたことは確かであり、室宮山古墳(350〜379年)の被葬者にはなり得ない。

 

室宮山古墳は墳長238mの天皇陵に匹敵する規模であり、埴輪は円筒埴輪・朝顔形埴輪・靫形埴輪・盾形埴輪・短甲形埴輪・草摺形埴輪・蓋形埴輪・切妻造家形埴輪・四柱造家形埴輪と多種である。そして、竪穴石槨は大きくないが、立派な長持形石棺が収められている。副葬品には三角縁神獣鏡など鏡が7面、鉄剣7本、勾玉・管玉多数、その他に色々ある。天皇の怒りをかい、こっそりと埋葬された墓ではない。室宮山古墳の被葬者を葛城襲津彦とする研究者は、『百済記』の沙至比跪の名前だけを史実と認め、記事の内容は史実ではないと思っているのだろうか。


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