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67-10. 古墳研究の大御所と私の編年との比較 [67.古墳時代は前方後円墳の時代]

Z310.白石氏古墳編年.png近つ飛鳥博物館の館長であられる白石太一郎氏は「畿内における大型古墳の編年」を作成されている。その最新版(図Z310は平成30年2月の講演会で配布されたもの)に掲載された古墳のなかで、私の編年で年代幅30年以内に比定出来た前方後円墳について、両者の年代を比較したのが図Z311である。白石氏の年代は前方後円墳の図Z310のくびれ部の年代とし、私の編年の年代は年代幅の中央値とした。図Z311はX軸を私の年代、Y軸を白石氏の年代としている。なお、図を見ると白石氏の編年がバラツイテいるように見えるが、それは錯覚でX・Y軸を反転させれば、私の編年がバラツイテいるように見える。図は両者の違いを表したに過ぎない。

 

Z311.白石編年比較.png赤線はPythonで導いた中心的な分布傾向を表す回帰直線であり、45度の黒線は私の編年とほぼ同じ年代観であることを示している。赤線と黒線とを対比してみると、白石氏と私の年代観はほぼ同じであることが分かる。これは編年の根幹をなす埴輪と須惠器の型式編年において、私の編年は近つ飛鳥博物館の編年をもとに作成していることによるからであろう。また、白石氏も私も箸墓の年代を国立民俗博物館が示した240年から260年を採用していることも大きな要因である。黒線とを比較すると、その多くは±25年の範囲にあるが、470年あたりの3点(鳥屋ミサンザイ、宇治二子塚古墳、狐井城山古墳)と300年あたりの2点(燈篭山古墳、妙見山古墳)とが50年近く離れている。

 

鳥屋ミサンザイ古墳(橿原市)は宣化天皇陵に治定されている墳長138mの前方後円墳である。造出付近からTK23またはTK47型式の須恵器が出土していることより、480年(470〜490年)と編年した。近つ飛鳥博物館の編年でもTK23・TK47型式は五世紀後半とされている。白石氏は530年と編年しているが宣化陵(539年歿)を意識したのであろうか。宇治二子塚古墳(宇治市)は墳長約112mの前方後円墳である。大正時代に後円部が破壊されたが、横穴石室があったと考えられている。年代は朝顔形埴輪Ⅳ式と埴輪Ⅴ式の出土から470年±5と考えられ、墳丘盛土内か出土したらTK23あるいはTK47の須恵器杯からは480年±10が考えられる。どちらも470年から480年を示している。白石氏の編年は525年であるが、その理由は分からない。狐井城山古墳(香芝市)は墳長140mの前方後円墳である。円筒埴輪Ⅴ式と長持形石棺から470年±5と編年した。古墳後期の指標である埴輪Ⅴ式・横穴式石室を持つ古墳は1379基ある。この中で長持形石棺が出土しているのは4基のみであり、狐井城山古墳は後期の始まりに造られたといえる。後期の始まりを私は470年と考えているが、白石氏は通説の500年として、505年と編年したのであろう。

 

300年あたりで編年に大きな差があった燈篭山古墳(天理市)と妙見山古墳(向日市)は両者とも(朝顔形)円筒埴輪Ⅰ式である。私は300年頃と編年し、白石氏は340年頃としている。同じ埴輪Ⅰ式でも平尾城山古墳と寺戸大塚古墳の場合は両者とも310年前後で大差ない。また、埴輪Ⅱ式が出土した東殿塚古墳は両者とも310年前後、東大寺山古墳と宝塚古墳の場合は両者とも350年頃で大差ない。燈篭山古墳と妙見山古墳の年代を340年頃とすると、埴輪Ⅰ式と埴輪Ⅱ式が30年間も共存していることになる。近つ飛鳥博物館の埴輪型式の編年では、埴輪Ⅰ式を3世紀後半4世紀、埴輪Ⅱ式を4世紀中葉としており、埴輪Ⅰ式と埴輪Ⅱ式の境は考古学的に明確でないのかも知れない。いずれにしろ、148項目の遺構・遺物の編年から導き出した古墳年代は、古墳研究の大御所白石氏と年代観は一致しており、考古学でも通用するものと確信する。


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