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B-15.日本武尊の東征は史実であった [Blog:古代史散策]

景行40年(321年)、東国の蝦夷が背いて辺境が動揺したので、景行天皇は次男の日本武尊を征夷の将軍に任じられ、吉備武彦と大伴武日連とを従わせ東征に出発させた。纏向の日代宮を出発した日本武尊は寄り道をして伊勢神宮を参拝し、倭媛命から天叢雲剣を授かった。駿河では賊の火攻めにあったが、天叢雲剣で草を薙ぎ払い、迎え火をつくって難を逃れた。その剣を名付けて草薙剣といい、その地を焼津といった。相模から上総へ海を渡るとき、暴風が起こり船は進まなかったが、皇子につき従ってきた弟橘姫が海に身を投じ、嵐はおさまり無事に着いた。その海を名付けて馳水という。上総から大きな鏡を船に掲げて、海路から葦浦に回り、玉浦を回って蝦夷の支配地である陸奥国に入っている。蝦夷の首領は竹水門で防ごうとしたが、王船を見てその威勢に恐れ服従した。日本武尊はその首領を手下にして蝦夷を平らげている。

 Z293.日本武尊東征経路.png

陸奥国は福島県・宮城県・岩手県・青森県を指すが、日本武尊が何処まで北上したか葦浦・玉浦・竹水門の比定には諸説あり定かではない。『日本書紀』井上光貞編纂(1987年)では、図293に示す「日本武尊東征経路図」では宮城県石巻市に流れ込む旧北上川の支流の江合川までが経路として描かれている。日本武尊は陸奥で蝦夷を平定した後、常陸・甲斐・武蔵・上野・信濃・美濃・尾張を通り帰国の途についたが、景行43年(324年)に伊勢能煩野で病死している。

 

Z294.入の沢遺跡.png2014年に江合川の北側で岩手県との県境に近い宮城県栗原市の入の沢遺跡で、総長330mにおよぶ大溝と竪穴建物跡39棟が出土した。竪穴住居の大半が焼かれていたが、住居跡からは小型の高杯・鉢や大型の二重口縁壷などの土師器、珠文鏡・重圏文鏡・内行花文鏡片などの鏡、刀剣・鏃・斧・鋤などの鉄製品、ガラス製の小玉、碧玉製や滑石製の勾玉・菅玉、水晶製の棗玉、琴柱形石製品、水銀朱などの、近畿文化の影響を受けた古墳前期の遺物が出土している。入の沢遺跡の年代は出土土器が上総の布留2式併行期で4世紀後半と見られている。私の編年でも、二重口縁壷(260369年)・珠文鏡(310559年)、琴柱形石製品(310399年)、水晶・滑石(320年〜)から、入の沢遺跡の年代を320年〜369年と割り出した。

 

入の沢遺跡の南25kmの大崎市には墳長100mの前方後円墳、青塚古墳がある。また、仙台市には墳長110mの前方後円墳、遠見塚古墳があり、南に隣接する名取市には墳長168mの前方後円墳、雷神山古墳がある。いずれの古墳からも二重口縁壷が出土しており、入の沢遺跡と同年代でないかと考えられる。前方後円墳は大和王権の象徴であり、4世紀の中葉には陸前までその覇権がおよんでいて、入の沢遺跡は蝦夷に対峙する最前線の砦であったと思われる。入の沢遺跡が焼き討ちにあっているのは、蝦夷の反撃にあったと考えられる。

 

Z295.4世紀中葉以前の前方後円墳.png景行55年(329年)の記事に、「豊城命(崇神天皇の息子で東国を治めた)の孫の彦狭島王は東山道十五国の都督に任じられたが病で亡くなった。東国の人民は王の来られなかったことを悲しみ、密かに王の屍を盗み出し上野国に葬った。翌年、息子の御諸別王が東国を治めるよう詔を受け、東国で善政をしいた。そのとき蝦夷が騒いだので兵を送り討った。蝦夷の首領はその領地の全てを献上した。降伏する者は許し、降伏せぬ者は殺した。こうして東国は久しく事なきを得た。」とある。Z295は4世紀中葉以前(〜369年)の前方後円()墳の分布図である。これらの古墳からは、埴輪Ⅰ式(290319年)、埴輪Ⅱ式(310369年)、特殊器台(260309年)、器台形埴輪(260339年)、二重口縁壷(260369年)、方形板革留短甲(340369年)が出土する。4世紀中葉以前の前方後円()墳の最北端が陸前国(宮城県)で、また、この時代の古墳が上野国(群馬県)に多いことは、『書紀』の記述に信憑性があることを示している。日本武尊の東征と御諸別王の東国治世が史実であり、「縮900年表」の年代が、考古学の年代と合っていることが分る。


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