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B-14.纏向遺跡の搬入土器は『書紀』に記載されている [Blog:古代史散策]

国立民族博物館は、箸墓古墳周辺から出土した土器に附着した炭化物の炭素14年代測定を行いJCalで較正して土器の編年を行い、箸墓古墳の築造年代が240~260年と発表している。この箸墓古墳の話が『書紀』崇神9年の記事に「倭迹迹日百蘇姫を大市に葬る。その墓を名付けて箸墓という。昼は人が造り、夜は神が造った。大阪山の石を運んで造る。山より墓にいたるまで、人民が手渡しに運んだ。」とある。箸墓古墳の後円部墳頂からは、奈良盆地と大阪平野の境にある二上山の山麓の芝山の石が出土しており、『書紀』の「大阪山の石を運んで造る。」と合致している。「縮900年表」によると、箸墓が造られた崇神9年は259年にあたる。ここでも、考古学・自然科学・『日本書紀』・「縮900年表」が結びついている。

 

『書紀』崇神9年(259年)の記事には「9月9日、大彦命を北陸に、武渟川別を東海に、吉備津彦を西海に、丹波道主命を丹波に遣わされた。詔りして『もし教えに従わない者があれば兵を以って討て』と言われた。それぞれ印綬を授かって将軍となった。・・・10月1日、群臣に詔りして『今は、反いていた者たちはことごとく服した。畿内には何もない。ただ畿外の暴れ者たちだけが騒ぎを止めない。四道の将軍たちは今すぐ出発せよ。』」と、四道将軍の話も記載されている。

 

卑弥呼と壱与を共立した邪馬台国連合国の国々は、吉備・出雲以西の中国・九州の国々(除く大隅)であった。崇神天皇(壱与)の時代、大和国の近隣諸国(河内・摂津・和泉)も連合国に属していたと考える。四道将軍を派遣した北陸・東海・西海(四国と考える)・丹波(含む丹後)は、連合国に属さない異俗の国々であった。崇神11年(261年)の記事には、「4月28日、四道将軍は地方の敵を平らげた様子を報告した。この年異俗の人たちが大勢やってきて、国内は安らかになった。」とある。崇神天皇の瑞籬宮があった磯城に、異俗(北陸・東海・四国・丹波・丹後)の人が大勢やってきたと記載している。

 

Z292.纒向搬入土器.png崇神天皇の瑞籬宮があった磯城に隣接、あるいは磯城の一部の地域である纒向遺跡から出土する土器の15%は、他の地域から持ち込まれた搬入土器である。搬入時期のピークは布留0式(240〜260年)で、その比率は東海50%で,山陰(出雲含む)・吉備が10〜15%、河内・近江・北陸・播磨・阿波が5〜10%である。異俗の人が土器を持ち込んでいることが判る。考古学・自然科学・『日本書紀』・「縮900年表」が結びついている。


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