SSブログ

B-13.纏向遺跡の桃の種が語るもの [Blog:古代史散策]

2018年5月15日の朝日新聞は、“「邪馬台国」論争に一石? 奈良・纏向遺跡出土の桃の種 卑弥呼の時代の可能性”との見出しで、「

所在地論争が続いてきた邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向遺跡(国史跡、3世紀初め~4世紀初め)で出土した桃の種が、放射性炭素(C14)年代測定で西暦135~230年のものとみられることが明らかになった。種は遺跡中枢部とみられる大型建物跡近くで出土し、大型建物の年代が自然科学の手法で初めて測定された。女王卑弥呼の君臨した時代と重なる可能性が高い。近畿説、九州説を主張する考古学者からは歓迎と反発の声が交錯した。」との文章から始まっている。

 

この記事は桜井市纒向学研究センターの研究紀要第6号に掲載された、中村俊夫・名古屋大学名誉教授の「纒向遺跡出土のモモの核のAMS・C14年代測定」の論文をもとに書かれたものである。桃の種は2010年に大型建物跡の南約5メートルにある土坑から約2800個みつかったもので、祭祀で使われた後に投棄されたと考えられている。中村氏は15個を測定し、数値の読み取れなかった3個を除いた12個について、C14年代(BP)の平均値が1824で、標準偏差(±1s)が6であると報告している。これはC14年代が95%の確立で1836〜1812BPの範囲に入ることを意味している。

 Z290.桃の種の較正年代.png

中村氏は測定値のBPを暦年代(較正年代)に変換(較正)するにあたり、IntCal(国際較正曲線)を用いて西暦135~230年を導きだしている。国立歴史民俗博物館はC14年代の較正において、JCal(日本産樹木による較正曲線)を導入している。IntCalJCalはBC200年頃までは大差がないが、BC100年からAD400年にかけて大きな差が現れている。図Z290はIntCalJCalの曲線を示している。BPが1836〜1812の範囲は、IntCalでみると135~230年(青線)であり、JCalでみると215~255年(緑線)である。桃の種が投棄されたのは、卑弥呼の時代あるいは壱与の時代ということになる。

 

纒向学研究センターは大型建物Dが廃絶された後に、桃の種が出た土坑(SK3001)とその湧水が流れていた溝(SM1001SD1009)が掘られたと説明している。大型建物Dが先で溝が後の根拠は、赤①に示めす柵の柱穴を切って溝・SD2001(庄内3式)が掘削されていることを理由に挙げている。図Z291から見ると溝と柱穴の関係は微妙な位置にある。赤②は大型建物Dの柱穴が完全に溝SM1001と交差しているが、これらについては言及がない。削平されている大型建物D跡に溝を掘るのであれば真直ぐ掘るはずであるが、溝(SM1001SD1009)はグニャグニャと曲がっており、削平前に地形に沿って掘った溝であるように見える。溝からは庄内3式と布留0式の土器が出土しており、布留0式の時代に土坑と溝を埋めて削平を行い、大型建物Dを建てたと考える方が合っているように思える。国立民族博物館は、箸墓古墳周辺から出土した土器に附着した炭化物の炭素14年代測定を行いJCalで較正して土器の編年を行い、箸墓古墳の築造年代が240~260年と発表している。この土器の編年を見ると、庄内3式は200~240年、布留0式は240~260年、布留1式は260~330年になっている。溝が先で大型建物Dが後ならば、大型建物Dは布留0式の時代、240~260年に建てられたことになる。

 

Z291.巻向宮殿柱図面.png

私の「縮900年表」では崇神天皇(=御間城姫=壱与)の治世は251〜273年であり、崇神3年(253年)に都を磯城の瑞籬宮に移している。崇神5年(255年)には国内に疫病が流行り、民が多く死亡したので、翌年に大田田根子を祭主として大物主大神を祀ったところ疫病が収まっている。大型建物Dがある地域は“大田”という地名であり、土坑に投棄された桃の種は、大田田根子が祭祀に供えた桃の種であったのではないかと空想が広がる。もちろん、土坑はもっと以前に掘られたものであった。また、大型建物Dは磯城の瑞籬宮で、疫病が治まってから建てられたと考えると、考古学・自然科学・『日本書紀』・「縮900年表」が結びついてくる。


nice!(2)  コメント(0) 

nice! 2

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。