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65-5.仁徳朝に掘った大溝は「古市の大溝」 [65.『日本書紀』と考古学のマッチング]

Z258.前方後円墳の立地変遷.png前方後円墳の立地の変遷を表Z258にまとめた。前期後葉(360~400年)になると、前期前葉に多く造られた山頂・尾根頂・丘陵頂の比率が減少し、段丘・台地に立地する古墳が多くなり、その傾向は中期・後期前葉と続いている。前期後葉と中期の多くの大形古墳が、河内の古市・百舌鳥古墳群のある台地に存在している。また、古墳の周濠の有無でみても、前期後葉になると周濠を有する古墳が大幅に増加し、その傾向は中期・後期前葉にも続いている。

 

394年、『書紀』仁徳14年の記事には「大溝を感玖に掘った。石河の水を引いて、上鈴鹿、下鈴鹿、上豊浦、下豊浦、四ヶ所の原を潤し、四万頃(しろ=百畝)あまりの田が得られた。その地の百姓は豊な稔りのために、凶作の恐れが無くなった。」とある。石河は大和川の支流の石川で、感玖(こむく)は河内国石川郡紺口(こむく)で現在大阪府南河内郡河南町から千早赤阪村のあたり、鈴鹿はどこかはっきりしないが、豊浦は大阪府東大阪市豊浦町とされている。

 

Z259.感玖の大溝.png感玖の推定地(河南町から千早赤阪村)は南北に流れる石川の東側、豊浦の推定地(東大阪市豊浦町)は南北に流れる旧大和川の東側である。大和川は奈良盆地から大阪平野に向かうときは東から西に流れ、石川との合流地点で90度流れを変え旧大和川となり、南から北に流れ河内湖に流れ込んでいる。これらからすると、石川の東側と旧大和川の東側を結ぶ大溝は、東西に流れる大和川を横断せねばならず存在し得ない。大溝は南北に流れる石川・旧大和川の西側にあり、古市古墳群内を通っていたと予想できる。

 

昭和39年に航空写真を観察していた秋山日出雄氏は、藤井寺市野中付近に見られる直線的な溜池群の配置に注目し、古市古墳群内を通る巨大な水路跡を発見し、その後の発掘調査や研究により「古市の大溝」の存在が確認された。「古市の大溝」は石川を源流とし、取水口を富田林市川面町付近(石川の西側)として、古市古墳群内を通り東除川に注ぐ、全長12キロメートルの流路が復元された。その水路に沿って「今井樋上」「井路間」「井路側」「水守東」「水守田」「溝マタゲ」「上ノミゾ」といった小字が続き、人工的な水路を想定させている。「古市の大溝」の発掘調査はまだ点にしか過ぎないが、溝渠の堆積物は8世紀から12世紀の間に堆積したことが分かっている。

 

前期後葉(360~400年)の時代、応神天皇は難波(大阪市)に大隅宮を、仁徳天皇は難波に高津宮を造っており、河内の地の台地で水田開発が行われたことが想像できる。段丘・台地の水田開発と古墳の造営に関係があったと考える。『書紀』仁徳14年に書かれた「大溝」が古市古墳群のある台地にあったとの証拠はないが、「古市の大溝」はその前身であろうと想像できる。


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