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63-12.神功皇后は実在し新羅遠征を行った [63.『日本書紀』の編年をエクセルで作る]

「縮900年表」は、『書紀』の編年から「欠史8代」と呼ばれている綏靖天皇から開化天皇までの記事を取り除き、『魏志』倭人伝や『百済記』『百済新撰』『百済本記』から引用した記事と神功紀・応神紀にある百済・呉との関連記事を「挿入記事」として取り除き、そして記事と記事の間の空白の期間が4年以上のものを取り除いて、900年短縮して作成している。そして、神功紀・応神紀の「挿入記事」は『書紀』の編年に120年プラスして、900年短縮した「縮900年表」に戻している。

 

『書紀』の神功紀と応神紀にある百済記から引用された記事の年月が、『三国史記』に記載された年月と比較すると干支2廻り、120年違っていることは、明治時代の歴史学者、那珂通世氏により学問的に研究されて以来、定説となっている。一方、私が発見した900年の短縮は、『宋書』倭国伝や「好太王碑」銘文でも、その精度は干支2廻りの編年と同等であった。900年短縮した『書紀』の編年が語る歴史は、『書紀』は歴史書として信頼できないという従来の定説を覆す。『書紀』に記載された天皇の中で、歴史・考古学者がその存在を全く信用していない天皇は、神武天皇と神功皇后であるといっても過言ではない。その神功皇后がなした新羅征伐を信用する歴史学者は居ないであろう。しかし、「縮900年表」を通して『書紀』を読めば、意外な史実が浮かびあがってきた。

 

『書紀』神功前記(仲哀9年)には、「神功皇后が新羅に攻込んだ。新羅王の波沙寐錦は降伏し、人質と金銀や絹織物を差出し、馬飼いとして春秋に朝貢することを約束した。皇后は持っていた矛を新羅王の門に立て後世の印とした。高麗と百済は新羅が地図や戸籍を差し出して降伏したと聞いて、倭国の勢力を伺い朝貢を約束した。そこで屯倉を定めた。」とある。『古事記』も、神功皇后が新羅に攻込み新羅王が降伏したこと、新羅は馬飼いと定め、百済は海を渡った地の屯倉と定めたこと、新羅王の門に御杖を定めたことなど、ほぼ同じことを記載している。900年縮めた「縮900年表」では、仲哀9年は346年となる。

『三国史記』では、「346年、倭軍が突然風島を襲い、辺境地帯を掠め犯した。倭軍はさらに進んで金城を包囲し激しく攻めた。王は城を出て戦おうとしたが、家臣康世の勧めで籠城した。賊軍は食糧がなくなり、退却しようとしたので、康世に命じて、精鋭な騎馬隊を率いて追撃し敗走させた。」とある。『三国史記』と「縮900年表」を通した『書紀』とは、戦の勝敗は摩逆であるが、346年に倭国が新羅の金城まで攻め込んだということは一致している。神功皇后の新羅遠征は史実であるが、これ以降新羅と百済が倭国に朝貢するようになったとは思えない。


中原高句麗碑.png
『書紀』神功前記では、新羅王を波沙寐錦と記している。「寐錦」が新羅王を表すということを歴史学者(日本・韓国・中国)が知ったのは、1978年に韓国の忠清北道忠州市で発見された中原高句麗碑からである。あの有名な好太王碑にも永楽十年(400年)の記事に「新羅寐錦」の刻字があったが、日中韓の歴史学者は「新羅安錦」と読んでいた。『書紀』は歴史学者より「寐錦」の言葉を正確に伝えており、神功皇后の新羅遠征(346年)が史実であった証拠であると考えている。


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