SSブログ

63-11.『書紀』は「好太王碑」と一致している [63.『日本書紀』の編年をエクセルで作る]

好太王碑.png中国の吉林省集安県の鴨緑江中流域、その昔高句麗の王都・丸都城のあったところにある好太王碑(広開土王碑)には、400年前後の高句麗・新羅・百済と倭国の関係が刻まれている。
 391年:辛卯の年よりこのかた、海を渡って来て百済を破り、
            東方では新羅を□し、臣民にした。
 399年:百済は誓いを破って倭と和通したので、(高句麗)王は
      平壌に出向いた。新羅の使いが、倭が新羅の国境に満ち
      ていると救援を請願した。
 
400年:新羅救援のため5万の歩騎を派遣した。新羅城には倭軍
      が満ちていた。官軍が到着すると倭軍は退却した。これ
      を追撃して任那加羅の従抜城に至る。
 404年:倭が帯方に侵入してきたので、王は平壌に討って出て大敗させた。

「縮900年表」によると、仁徳天皇の治世は381年から431年で、好太王碑に刻まれた朝鮮半島に進出した倭国王は仁徳天皇であることがわかる。好太王碑に刻まれた内容は『書紀』には次のように記載されている。西暦は「縮900年表」によるもので、仁徳紀は900年縮めた年代、応神紀は120年加算した年代である。なお、『三国史記』によると百済の阿華王の在位は392年~405年となっており、120年の加算と合っている。
 391年:(仁徳11年)新羅人の朝貢があった。そこで茨田の堤の役に使われた。
 392年:(応神3年)百済の辰斯王が倭国の天皇に対して礼を失することが多く、紀角宿禰等4名
      派遣。百済国は陳謝し、辰斯王を殺し阿花王を立てる。
 397年:(応神8年)阿花王が立って倭国に無礼をした。それで枕彌多礼、峴南、支侵、谷那・東韓
      の地を奪われた。そのため王子・直支を天朝に遣わして先王の好を修好した。
 397年:(仁徳17年)新羅が朝貢しなかった。砥田宿禰と賢遣臣を新羅に派遣し詰問。新羅人は
      恐れ入って貢ぎ物を届けた。貢物は80艘あった。
 405年:(応神16年)百済の阿花王が薨じた。天皇は直支王子に「国に帰り位につきなさい」と
      言われ、東韓の地を賜り帰国された。

『書紀』では397年に、百済は倭国に南部の地を奪われると、王子・直支を倭国に遣わし好を修好したと記し、新羅は倭国に朝貢しなかったと詰問されると、80艘の貢ぎものを倭国に届けたと記している。「好太王碑銘文」では399年に、百済は誓いを破って倭と和通したと記し、新羅は倭が新羅の国境に満ちていると救援を請願したと記している。「好太王碑」の391年から404年の銘文と、『書紀』の391年から405年の記事は同じ史実を述べているといえる。「縮900年表」を通してみると、『書紀』は「好太王碑銘文」と一致している。


nice!(2)  コメント(0) 

nice! 2

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。