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63-13.『古事記』と『書紀』が伝えていた史実 [63.『日本書紀』の編年をエクセルで作る]

『書紀』の編年を900年の短縮した「縮900年表」の編年が、正しいことを証明する記事が『古事記』にあった。『古事記』応神記には「百済の国主照古王、牡馬壱疋・牝馬壱疋を阿知吉師に付けて貢上りき。また横刀と大鏡とを貢上りき。また百済国に『若し賢しき人あらば貢上れ』とおほせたまひき。かれ、命を受けて貢上りひと、名は和邇吉師、すなはち論語十巻・千字文一巻、并せて十一巻をこの人に付けてすなはち貢進りき。また手人韓鍛名は卓素、また呉服の西素を貢上りき。」とある。一方、『書紀』応神15年には「百済王は阿直岐(あちき)を遣わして良馬二匹を奉った。・・・天皇は阿直岐に『お前よりも優れた学者がいるかどうか』といわれた。『王仁(わに)というすぐれた人がいます』と答えた。上毛野君の先祖の荒田別・巫別を百済に遣わして王仁を召された。」とある。

 

『古事記』と『書紀』の記事は、百済国主=百済王、牡馬壱疋・牝馬壱疋=良馬二匹、阿知吉=阿直岐、「賢しき人あらば」=「優れた学者がいるかどうか」、和邇=王仁であり、両者は全く同じ話である。『古事記』は百済王を照古王(しようこおう)とあるが、『書紀』には百済国王の名がない。「縮900年表」によれ応神15年は368年となる。倭国は応神天皇(354~380年)で、百済は肖古王(346~375年)の時代である。『古事記』と『書紀』は、百済の肖古王が良馬2匹を応神天皇に献上したことを伝え、「縮900年表」は、それが368年のことであると解明した。

 七支刀.png

奈良県天理市にある石上神宮には、左右に段違いに三つずつの枝剣があり、剣身を入れると七つの枝に分かれる特異な形をした、国宝の七支刀がある。この七支刀には、表と裏に60余文字の金象嵌がある。その銘文を下記に示すが、表の象嵌は泰和4年(東晋太和4年:369年)に七支刀が造られたことをしるし、裏の象嵌は百済王が倭王のために造ったことをしるしている。
 「泰和四年五月十六日 丙午正陽 造百錬銕七支刀 生辟百兵宜供 供候王 □□□作」
 「先世以来 未有此刀 百滋王世□ 奇生聖音 故為倭王旨造 伝示後世」

『書紀』神功52年の記事には、「百済の肖古王が七枝刀一口と七子鏡一面、および種々の重宝を奉った。」とある。「縮900年表」は神功紀・応神紀の「挿入記事」は、『書紀』の編年に120年プラスして、900年短縮した「縮900年表」に戻している。神功52年は『書紀』の編年に従えば252年であり、「縮900年表」では120年プラスした372年となる。石上神宮の七枝刀は、『書紀』に記載された七枝刀で、百済の肖古王が369年に造り、372年に倭国の応神天皇に献じたものであることが分かる。

 

『三国史記』によれば百済の肖古王は、368年に新羅に良馬2匹を奉っている。369年には3万の歩兵・騎兵を伴って南進してくる高句麗と雉壌(平壌とソウルの中間)で戦い勝利した。371年には高句麗が大挙して攻めてきたが、肖古王はそれに勝利すると、3万の軍を率いて平壌を攻め、高句麗の国原王は流れ矢にあたって戦死したので、軍隊を引き上げている。372年には使者を晋に派遣し朝貢している。このことは『晋書』武帝紀に記載がある。

 

百済の肖古王は、新羅に良馬2匹を奉った368年に、倭国の応神天皇にも良馬2匹を献じている。また、晋に朝貢の使者を派遣した372年に、倭国の応神天皇に七枝刀一口と七子鏡一面、および種々の重宝を奉っている。これらは、南下してくる高句麗に対処するためであり、また一国に偏らず、四方の国と好を通じておこうとする百済の外交戦略の巧みさが伺われる。900年短縮した「縮900年表」は、『宋書』や『三国史記』の編年と合い通じる精度であり、『書紀』に記載された記事が、潤色や誇張はあるが史実に基づいていることを浮かび上がらせた。


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