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62-3.仏教の伝来は『書紀』が記す552年 [62.仏教が伝来したのはいつか?]

仏経伝来の年は『書紀』に書かれた壬申の年(552年)か、『法王帝説』に書かれた戊午の年(538年)かを明確にするために、両者の編年に注目した。聖徳太子の薨日については、『書紀』は推古29年(辛巳:621年)2月5日としている。しかし、『上宮聖徳法王帝説』、法隆寺の釈迦三尊像光背銘、中宮寺の天寿国繍帳銘は、推古30年(壬午:622年)2月22日となっている。「59-13.聖徳太子の命日を解く」で記したように、『書紀』は、聖徳太子と仏法の師僧恵慈の関係を物語化するために、聖徳太子の薨日と僧恵慈の命日のすり替えが行われており、聖徳太子の薨日は、『上宮聖徳法王帝説』、法隆寺の釈迦三尊像光背銘、中宮寺の天寿国繍帳銘に記された、推古30年(壬午:622年)2月22日が正しいと考える。

 

聖徳太子誕生の年については『書紀』に記載はないが、推古元年に「厩戸豊聡耳皇子を立てて皇太子とされ、国政をすべて任された。太子は用明天皇の第二子で、母は穴穂部間人皇女である。皇后は御出産の日に宮中をご視察され、馬司のところで厩の戸にあたられ、難なく出産された。」とある。聖徳太子が「厩戸(うまやと)」皇子と呼ばれていたのはこの故事によっている。聖徳太子誕生の年が「甲午」の年とする『法王帝説』に疑問が残る。

 

Z211.法王帝説と日本書紀.png

 

表Z211に欽明天皇・敏達天皇・用明天皇・崇峻天皇・推古天皇の崩御の年について、『法王帝説』と『書紀』に記載された年を比較した。5代の天皇の崩御の年が全て一致している。また、表Z212に『法王帝説』と『書紀』に記載された仏教公伝・聖徳太子誕生・勝鬘経講話・聖徳太子薨去の4項目について、それぞれの年の干支を示した。仏教公伝・聖徳太子誕生・勝鬘経講話・聖徳太子薨去の年が二つの書で全て異なっているのは不自然である。表を見て気がつくことは、『法王帝説』の仏教公伝・聖徳太子誕生・勝鬘経講話・聖徳太子薨去の4項目の干支が全て「午」の年となっていることである。『法王帝説』は、仏教の興隆を聖徳太子が成したとするために、聖徳太子の薨去が「壬午」の年であることから、聖徳太子の勝鬘経講話と誕生、そして仏教伝来の全てを、聖徳太子に関わりのある「午」の年に捏造したのではないかと思える。

 

『三国史記』百済本紀によると、聖王19年(541年)に「王は使者を梁に派遣し、毛詩博士、涅槃などの経義、ならびに工匠・画師などを要請し、梁はこれを許した。」とある。このことは『梁書』百済記に記載されている。百済の聖明王が欽明天皇に献上した経論はこの時に入手したものであろう。仏教伝来は『書紀』にある欽明13年(552年)壬申の年で、蘇我稲目・蘇我馬子・聖徳太子が我が国に仏教を根付かせる基盤を作ったと考える。

 


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