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62-1.仏教の伝来の年はまだ確定していない [62.仏教が伝来したのはいつか?]

古墳時代と飛鳥時代の大きな画期は仏教伝来である。しかし、仏教が公伝された年月については、まだ明確になっていない。『日本書紀』の欽明13年(552年)10月の記事には、「百済の聖明王が金堂仏像一体と幡蓋若干・経論若干を献じ、仏を広く礼拝する功徳を上表した。」とある。『上宮聖徳法王帝説』(以後、『法王帝説』と表記)には「志癸嶋天皇(欽明天皇)の御世、戊午の年(538年)十月十二日、百済国の主(聖)明王、始めて仏像・経典、併せて僧等を渡り来て奉る。勅して蘇我稲目宿祢大臣に授け興隆させしむ。」とあり、また『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』(以後、『元興寺縁起』と表記)には、「大倭の国の仏法は、斯帰嶋(しきしま)の宮に天の下治しめし天国案春岐広庭天皇(欽明天皇)の御世、蘇我大臣稲目宿禰の仕へ奉る時、天の下治しめす七年、戊午の年(538年)十二月、渡り来たるよりはじまれる。」とある。

 

欽明天皇の御世に百済の聖明王から仏教が伝わったことは、『書紀』と『法王帝説』・『元興寺縁起』は同じだが、伝わった年が「壬申」(552年)と「戊午」(538年)と違っている。『三国史記』によれば、百済国の聖王(聖明王)の治世は523年から554年で、「戊午」の年(538年)、「壬申」の年(552年)の両者は存在している。なお、聖明王の父の武寧王の陵墓が忠清南道公州市の宋山里古墳群から発見され、出土した墓誌には523年に崩御したとあり、『三国史記』の聖明王の在位は正しいことが分かっている。『書紀』の編年によれば、欽明天皇の治世は540年から571年で、「壬申」の年は存在するが、「戊午」の年は存在しない。

 

『書紀』の欽明13年の仏教伝来の記事にある、仏を広く礼拝する功徳をのべた文章、「この法は諸法の中で最も勝れております。解かり難く入り難くて、周公・孔子もなお知り給うことが出来ないほどでしたが、無量無辺の福徳果報を生じ、無情の菩提を成し。」が、唐の義浄が長安3年(703年)に漢訳した『金光明最勝王経』をもとに記述されており、欽明13年(552年)当時には存在していなかったことから、記事の信憑性が疑われ、仏教公伝の年は『法王帝説』・『元興寺縁起』にある戊午の年(538年)が有力視されている。

『日本書紀』   :「是法於諸法中最爲殊勝難解難入。周公・孔子、尚不能知

           能生無量無邊福德果報乃至成辨無上菩提

『金光明最勝王経』:「金光明最勝王経、於諸経中 最爲殊勝難解難入。聲聞獨覚、所不能知

           能生無量無邊福德果報 乃至成辨無上菩提

 

戊午の年(538年)が仏教伝来の年となると、『書紀』の編年に従えば仏教伝来は宣化3年となり、欽明朝に仏教が伝来したという大前提が崩れてしまう。また、『元興寺縁起』にある「(欽明)七年、戊午」を採用すると、欽明即位は継体天皇崩御の年531年(継体25年、辛亥)の翌年の532年となり、安閑天皇・宣化天皇は存在しないことになる。それを補うため、安閑天皇・宣化天皇と欽明天皇は異母兄弟であり、継体天皇が崩御された直後に、天皇出自を背景として安閑・宣化朝と欽明朝が並立していたとする説がある。こんな説でも考えなければ「欽明天皇の戊午の年(538年)に仏教が公伝した」とする『法王帝説』・『元興寺縁起』の整合性が取れないのである。仏教伝来は538年とすることに、軍配はまだ上がっていないと思える。


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