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61-14.桑原遺跡が阿武山古墳の年代を解明した [61.後期古墳・終末期古墳の被葬者を比定する]

阿武山古墳から南西に山を下った安威川の側に桑原遺跡・桑原西古墳群がある。この古墳群からは6枚の塼を敷いた竪穴式小石室が発見さされた。また、安威川の対岸には横穴石室に20枚の塼を敷き詰めた横穴石室を持つ、一辺が約10mの方墳である初田1号墳があった。これらの塼は阿武山古墳の塼と多くの特徴を共有しており、同じ窯で焼かれた同時代のものであると見られている。

 

安威川が大きく屈曲する微高地にある桑原遺跡は、安威川ダム建設に伴い平成16年度から大阪府教育委員会により発掘調査が開始され、古墳時代終末期を中心とする桑原西古墳群の姿が現れた。古墳群では少なくとも21基の古墳が確認され、その多くは周溝を共有した状態で密集して築造されていた。墳丘は方墳か円墳で一基のみ八角墳である。埋葬施設のほとんどが無袖式の横穴式石室で、玄室が墓道に直接繋がっていた。

 

大阪府埋蔵文化財調査報告2007-4『桑原遺跡』によると、8基の石室は非常に良好な残存状況にあり、杯や平瓶など飛鳥時代前後の須恵器が多数出土している。横穴式石室の形状および石室内より出土する副葬土器から、造墓は7世紀初頭から7世紀第3四半期までの短い期間に集中的に形成されたとしている。調査報告書では形成過程を桑原Ⅰ期~Ⅴ期に分類しているが、Ⅱ期からⅤ期は極めて短期間であるとされていることから、桑原前期(Ⅰ期)・桑原後期(Ⅱ~Ⅴ期)として見て行くことにした。

 

Z208.桑原遺跡H杯セット.png調査報告書『桑原遺跡』には、杯(杯蓋・杯身)の種別(H杯・G杯・B杯)、直径・口径と器高、図面が記載されていた。杯身の口径と器高の測定箇所は「60-3.須恵器の杯は年代のものさし」で示した植田隆司氏の図表157と同じであった。また、大阪府教育委員会は高槻教育委員会より阿武山古墳出土のH杯、杯身1点・杯蓋3点の須恵器を借り受け、その測定値を記載している。杯蓋の直径と器高に対応する杯身の口径と器高を求めることが出来れば、阿武山古墳出土の杯の年代がより明確にできる。桑原遺跡から出土したH杯には、杯身と杯蓋がセットになったものが11セットある。杯蓋と杯身と直径と口径の差、器高の差の平均(MaxとMinを除く)は、それぞれ1.6cmと0.3cmであった。この値を使って、阿武山古墳出土の杯蓋に対応する杯身の口径・器高を換算した。表Z208に示すように、出土した杯身の口径と器高は3点の杯蓋より換算した杯身の口径と器高の範囲に入っていた。

 

Z209.阿武山杯身法量.png桑原前期(青)と桑原後期(緑)のH杯の杯身、阿武山古墳出土のH杯の杯身(赤)、H杯の杯蓋より換算した杯身(ピンク)の口径と器高を、植田隆司氏の「杯身法量の変遷」にプロットしZ209を作成した。これらから見ると阿武山古墳の杯身は桑原後期と同じで、須恵器の型式はTK217新段階(飛鳥Ⅱ)であることが分かる。私が定めた須恵器の編年表によれば、TK217新段階(飛鳥Ⅱ)は640年~670年となる。

 

桑原遺跡の調査では、桑原Ⅲ期とされるA3号の石室床面より検出された木棺材の一部と見られる炭化物の加速度質量分析法(AMS法)による放射性炭素年代測定が行われている。その結果は68%の確立で645年~670年であり、95%の確立で635年~685年であった。桑原Ⅲ期は桑原後期(640年~670年)の中頃と考えると、須恵器から導きだした年代と、放射性炭素年代測定の値には矛盾がない。

 

桑原西古墳群の6枚の塼が敷かれていた竪穴式小石室は、桑原Ⅴ期とされており、塼の年代はTK217新段階(飛鳥Ⅱ)の終り頃、670年頃と見られる。この塼は阿武山古墳の塼と同じ窯で焼かれ、同時代のものであると見られており、阿武山古墳が670年頃に築造されたことが分かる。藤原鎌足が亡くなったのが天智8年(669年)であるから、阿武山古墳は藤原鎌足の墳墓といえる。桑原西古墳群にはその築造時期が桑原Ⅳ期である八角墳が1基(C3)存在する。その築造時期は藤原鎌足の薨去の時期と重なっており、八角墳は鎌足の遺骸を阿武山古墳に本葬する前に、仮葬した古墳かも知れない。


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