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61-13.阿武山古墳の年代に疑問符 [61.後期古墳・終末期古墳の被葬者を比定する]

Z206.阿武山古墳、杯と塼.png昭和57年(1972年)高槻市教育委員会は、阿武山古墳を史跡に指定してもらおうと、古墳の範囲を明らかにするためのトレンチ調査を実施している。この調査において、排水溝から須恵器の蓋杯(杯蓋3点・杯身1点)と甕片と土師器片が出土した。須恵器の蓋杯は杯Hと呼ばれ、須恵器の年代決定には有用な器種で、杯蓋の直径あるは杯身の口径でその年代を決めることが出来る。杯蓋の直径でみると、山田寺下層の段階(11.8cm)、甘橿丘東麓遺跡の段階(11.5cm)、飛鳥池遺跡(10.6cm)、坂田寺池の段階(10.0+α)、水落遺跡の段階(9.5cm)と時代が降ると直径が小さくなっている。阿武山古墳の杯Hの法量は、杯蓋の直径は10.6~10.2cm(平均10.3cm)で、坂田寺池の段階から水落遺跡の段階にかけてのものと判定され、飛鳥Ⅱの中頃ないし半ば過ぎで、7世紀第2四半期(625年~650年)と考えられた。

 

Z207.須恵器の編年.pngこの須恵器の年代観からすると、藤原鎌足が亡くなったのが天智8年(669年)であるから、阿武山古墳は藤原鎌足の墳墓ではないことになる。これを根拠に阿武山古墳は藤原鎌足の墳墓ではないと主張する学者がいる一方、最近の多くの研究者は須恵器の年代基準を変え、阿武山古墳の須恵器の年代は660年頃ないし660年代であるとして、阿武山古墳は藤原鎌足の墳墓の可能性はあると主張している。このような事が生ずるのは、須恵器の編年が確立されていないからであろう。「60-4.古墳後期と飛鳥の須恵器編年」で示した、私の須恵器編年表によれば、飛鳥ⅡはTK217新段階で640年~670年である。

 

同じ遺跡から出土する蓋杯の法量(杯身の口径、杯蓋の直径)にはバラツキがあり、そのバラツキの幅は年代間の差(約5mm)を越え10mm以上もある。このようなバラツキがあるもの同士を比較して、何れの集団と同じであるかを見極めるためには、統計的な有意差検定を行う必要があり、少ない資料での平均値の比較では判定は困難となる。阿武山古墳出土の年代決定には、もっと資料が必要である。


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