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61-12.阿武山古墳は藤原鎌足の墓か? [61.後期古墳・終末期古墳の被葬者を比定する]

Z204.阿武山古墳埋葬施設.png大阪府高槻市にある阿武山古墳は、昭和9年に京都大学の地震研究所が地震計を設置するため縦坑を掘削中、偶然に発見された。地表から深さ50cmのところで塼を敷き詰めた層にあたり、さらに掘り進めたところ石積みに漆喰を詰めた埋葬施設が見つかった。阿武山古墳は墳丘の無い地下に造った墓で、埋葬施設は無袖式の横穴式石室(横口式石槨と考える説もある)、石室は花崗岩の割石で築き壁面を漆喰で塗っている。石室の床は塼を敷き中央に塼積みの棺台があって、黒漆塗りの夾紵棺が安置されていた。阿武山古墳は7世紀半ば以降の古墳であると考えられている。

 

Z205.冠帽と玉枕.png阿武山古墳は未盗掘の古墳であったので、棺内には埋葬時のままの遺骸が残っており、頭部付近には玉枕や多量の金糸があつた。この金糸は冠帽の縁の刺繍に使われたものであることがわかった。『書紀』大化3年(647年)に「七色十三階の冠の制を作った。」とあり、最上級の織冠と二番目の繍冠の冠帽の縁には刺繍が施されていた。中臣鎌足は死の直前の天智8年(669年)10月に藤原の姓とともに大織冠と大臣の位を授けられており、阿武山古墳の被葬者は中臣鎌足(藤原鎌足)ではないかと考えられた。

 

現在、中臣鎌足を祭神として祀っているのは奈良県桜井市にある談山神社(多武峯寺)である。唐に留学していた鎌足の長男定慧が帰国後、摂津島下郡「阿威山」の墓に葬られた鎌足の遺骸を多武峯に改葬したと、平安時代中頃に成立した『多武峯略記』に記載されている。茨木市西安威に「大織冠神社」がある。この神社は鳥居があり神社の体裁をなしているが社殿はなく、「藤原鎌足公古廟」(将軍塚古墳)とされる横穴式石室を持つ円墳のみがある。毎年10月16日(藤原鎌足の命日)には、京都の藤原氏末裔の九条家から反物二千匹を持参した使者が来て、お祭りをされていた。今でもこの日に例祭「大織冠神社祭」がおこなわれている。平安~鎌倉時代に藤原北家の九条兼実が安威の荘園を本所とした頃に、将軍塚古墳を鎌足公の「阿威山墓」に比定したのではないかと言われている。

 

Z205.阿武山古墳と周辺.png藤原鎌足の墓が摂津国嶋下郡阿威山にあるという伝承は史実であったが、鎌足の墓(阿武山古墳)には墳丘がなく地下式墓であったため忘れ去られてしまい、将軍塚古墳が藤原鎌足公古廟とされたのであろう。『延喜式』に藤原鎌足の息子不比等の墓・多武岑墓の記載があるのに、始祖である鎌足の墓の記載が無いのはこのためであろう。鎌足は「葬儀は簡素なものにしてください。」と、見舞いに来られた天智天皇に申し出ている。阿武山古墳は鎌足の遺言を実行し、造営されたのであろう。


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