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61-11.叡福寺古墳の夾紵棺に葬られたのは誰か [61.後期古墳・終末期古墳の被葬者を比定する]

叡福寺古墳はもともと八角墳であって、白雉5年(654年)に崩御された孝徳天皇の大坂磯長陵であったと考える。Z203は、『延喜式』にある磯長谷の陵墓の兆域にそれを図示したものであが、孝徳天皇陵(叡福寺古墳)と聖徳太子墓(葉室塚古墳)の兆域に不自然さはない。叡福寺古墳は切石造りの横穴式石室を有するが、推古11年(603年)に亡くなった来目皇子の墓(塚穴古墳)の石室が切石造りの横穴式石室であることからすると、古墳の年代と孝徳天皇の崩御時期に矛盾はない。石室の奥にある家型石棺に孝徳天皇が葬られたとすると、問題はその手前にある二基の夾紵棺に葬られたのは誰かということになる。孝徳天皇の皇后は間人皇后で、母の斉明天皇と合葬されている。二基の夾紵棺に葬られたのは、孝徳天皇の妃の安部倉梯麻呂の娘・小足姫と、その子である長子・有間皇子であると考える。

 

Z203.聖徳太子墓と孝徳天皇陵.png

『書紀』斉明4年(658年)11月3日、斉明天皇が紀湯(白浜温泉)に行幸されているとき、有間皇子は蘇我赤兄臣の「斉明天皇の政事には三つの過ちがある。一つは大きな倉庫を建てて民の財産を集積したこと、二つは長い溝を掘って公の食料を浪費したこと、三つは舟で石を運び、それを積んで丘にしたことです。」という挑発に乗り、謀反決行を口走った。5日に有間皇子は赤兄臣の家で謀議を巡らしていると、不吉な予兆があつたので、謀を中止して家に帰った。その夜、蘇我赤兄臣は有間皇子の家を取り囲み、駅馬を遣って天皇に有間皇子が謀反と奏上した。

 

9日に有間皇子と守君・坂合部連・塩屋連・新田部連の4人は捕らえられ、紀湯へ護送された。皇太子(中大兄皇子)が自ら有間皇子に「どうして謀反を起そうと思ったのか。」と問われたが、有間皇子は「天と赤兄とが知っているでしょう。」と答えた。11日に藤代坂(海南市)にて

有間皇子は絞刑され、塩屋連・新田部連の二人は斬刑された。そして守君・坂合部連の二人は流罪となった。中大兄皇子33歳、有間皇子19歳の時である。

 

有間皇子が処刑された藤代坂(海南市)は、都の飛鳥から紀湯(白浜温泉)に行く行程の半分にも満たないところである。有間皇子は斉明天皇の裁断で処刑されたのではなく、皇太子(中大兄皇子)により処刑されたのである。後に蘇我赤兄臣は娘の常陸姫を天智天皇(中大兄皇子)の妃とし、天智朝において左大臣まで出世している。「有間皇子の変」は、中大兄皇子が蘇我赤兄臣に命じて挑発したと云われるのもこのためである。中大兄皇子には、謀反の疑いを掛けて政敵を排除するというきらいがある。大化元年に古人大兄皇子が謀反の疑いを掛けられたとき、大化5年に蘇我倉山田石川麻呂が謀反の疑いを掛けられたときも、裏で中大兄皇子が画策したと考えられている。不思議なことに、古人大兄皇子の娘は皇后に、蘇我倉山田石川麻呂の二人の娘は妃に、阿部倉梯麻呂(有間皇子の祖父)の娘も妃としている。

 

有間皇子が処刑されたことを知った母・小足姫は悲しみの余り、自殺を図ったと想像する。斉明天皇はこの事件は図られたことであると全てお見通しで、有間皇子と小足姫を夾紵棺に納め、孝徳天皇の墓に合葬したと考える。高級な夾紵棺に納棺したのは、大きなこと・派手なことが好きな、斉明天皇の性癖からであろう。有間皇子の埋葬については、小足姫の姉妹の中大兄皇子の妃・橘娘、孝徳天皇・斉明天皇の内臣であった中臣鎌足、当時蝦夷征伐で功績を挙げていた阿部臣比羅夫等の懇願があったのかも知れない。叡福寺古墳の二基の夾紵棺に葬られたのは孝徳妃の安部倉梯麻呂の娘・小足姫と、その子である孝徳天皇の長子・有間皇子であると考えると、夾紵棺の年代も合致してくる。叡福寺古墳は孝徳天皇の大坂磯長陵であると言える。


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