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61-9.聖徳太子墓は磯長谷にある長方墳 [61.後期古墳・終末期古墳の被葬者を比定する]

Z200.叡福寺北古墳の石室.png聖徳太子墓(叡福寺古墳)の石室は明治初めまでは中に入れ、色々な記録が残っている。それによると石室は両袖式の横穴石室で、花崗岩の切石造りである。石室には三つの棺があって、奥の棺は刳抜式の家形石棺で、その手前二つの棺は石の棺台に夾紵棺が置かれていたと見られている。奥の棺は母の穴穂部間人皇女、手前の右側の棺が聖徳太子、左側の棺が膳夫人とされており、中世では三棺合葬の形を阿弥陀三尊信仰と結びつけ、「三骨一廟」と呼び信仰の対象としていた。

 

平安前期に成立したと考えられている『上宮聖徳法王帝説』によると、間人女王(穴穂部間人皇女)は、用明天皇が崩御された後、義理の息子・多米王と結婚し、佐富女王を産んでいる。間人女王は聖徳太子からも疎んじられていたとの指摘もあり、聖徳太子と間人女王が合葬されているとは思われない。『延喜式』の「諸陵寮」によると、間人女王の墓・龍田清水墓は大和國平群郡に在るとしている。『書紀』に登場する間人皇女は二人いる。一人が用明天皇の皇后で聖徳太子の母である。もう一人の間人皇女は、斉明天皇の娘で孝徳天皇の皇后で、天智6年(667年)2月の記事に「天豊財重日足姫天皇(斉明天皇)と間人皇女を小市(おち)崗上陵に合葬した。」とあるように、斉明天皇の越智崗上陵に合葬されている。『延喜式』の間人女王の墓は聖徳太子の母の墓と考えられる。

 

叡福寺古墳の二つの棺は、麻布を漆で何重にも貼り重ねて作った夾紵棺である。夾紵棺が出土した古墳は、叡福寺古墳を含めて5例しかない。牽牛子塚古墳(斉明天皇陵)、阿武山古墳(藤原鎌足)、野口王墓古墳(天武・持統天皇陵)、平野塚穴山古墳である。牽牛子塚古墳が斉明天皇陵であり、阿武山古墳が藤原鎌足の墓であることは、多くの学者の唱えるところである。また、天武・持統天皇陵は被葬者が確定できる古墳の一つである。

 

夾紵棺の破片が出土している平野塚穴山古墳は、奈良県香芝市平野にある一辺21mの方墳で、凝灰岩切石の横口式石槨を持つ、玄室は長さ1.7mx幅1.5mx高さ1.7mで、唐尺で設計されており、7世紀末から8世紀初めの古墳と考えられている。夾紵棺の存在が確認された古墳の被葬者からみると、聖徳太子の薨去621年頃、斉明天皇の崩御は661年、藤原鎌足の薨去が669年、天武天皇の崩御は686年、平野塚穴山古墳の築造年代は7世紀末から8世紀初めとなる。夾紵棺の存在からみると、叡福寺古墳を聖徳太子墓とするには、無理があるように感じられる。

 

前方後円墳が終焉した後に築造された大型方墳は、蘇我氏との関わり、あるいは仏教・寺院との関わりがあると指摘されている。聖徳太子の父母は二人とも蘇我稲目の孫で、二人の妃も稲目の孫と曽孫であり、聖徳太子は蘇我氏と最も関わりの深い人物である。また、聖徳太子は推古天皇の皇太子として、蘇我馬子と共に仏教の興隆に貢献している。Z193の「天皇家と蘇我氏の系譜」に見られるように、聖徳太子墓は方墳であることが相応しい。聖徳太子墓に治定されている叡福寺古墳は円墳であること、聖徳太子の母・穴穂部間人皇女が合葬されていること、二基の夾紵棺の年代が合わないこと、どれをとっても叡福寺古墳が聖徳太子墓であることに否定的である。

 

Z193.天皇家と蘇我氏の墳墓.png

磯長谷には葉室塚古墳(越前塚古墳)がある。東西75mx南北55mの長方墳で、2基の横穴石室がある。古墳の規模は推古天皇陵(59mx55m)・用明天皇陵(65mx60m)より大きく天皇陵クラスである。『書紀』崇峻4年の記事に「敏達天皇を磯長墓に葬りまつった。これは亡母の皇后が葬られている陵である。」とあることから、葉室塚古墳にある2基の横穴式石室に、敏達天皇と亡母・欽明天皇の皇后石姫が葬られているとして、敏達天皇陵の候補であるとする意見もある。私は、葉室塚古墳は聖徳太子墓で、2基の横穴式石室は聖徳太子と前日に亡くなった膳夫人であると考える。『延喜式』には、磯長墓(聖徳太子墓)の兆域は東西三町,南北二町となっており、葉室塚古墳(越前塚古墳)の東西75mx南北55mの長方墳に似合う兆域である。

 


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