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61-8.叡福寺古墳はいつ聖徳太子墓になったか [61.後期古墳・終末期古墳の被葬者を比定する]

Z199.叡福寺と聖徳太子御廟.png聖徳太子墓(磯長墓)は大阪府南河内郡太子町の叡福寺境内にある叡福寺古墳(円墳:径54mx高さ7m)に治定されている。叡福寺は聖徳太子墓の墓前寺であるとされており、聖徳太子墓が叡福寺古墳であると比定された年代は、叡福寺の創建まで遡る。一方、九条家本『諸寺縁起集』(鎌倉年代成立)に引用されている『天王寺事』の「聖徳太子御墓」の項には、「治安四年6月14日記す、聖徳太子の墓所を訪ねることが出来ない。墓の所在が不明となっている。河内国普光寺の僧・慈円が古文書『延喜式』を見つけ出した。それには<聖徳太子の磯長墓は河内国石川郡に在る>と書かれている。」とある。これにより、治安四年(1024年)には叡福寺はまだ創建されていなかったことが分かる。

 

叡福寺は「太子御記文」という碑文のある大理石(45x21x7cm)を所蔵している。「太子御記文」とは、聖徳太子が書かれとされる予言文書である。この碑文については鎌倉初期の説話集である『古事談』(1215年編)に記載されている。大筋は、天喜2年(1054年)9月20日に、聖徳太子御廟近辺の坤(ひつじ)の方に石塔を立てようとしたら、長さ1尺5寸、幅7寸の筥(はこ)石が地中から出てきた。身と蓋があり、開けてみると御記文があったので、四天王寺を通じてことの次第を奏上した。御記文の上石文には「今年歳次辛巳、河内国石川郡磯長の里に、最も優れ称美に足りる地があり、故に墓所と定めた。吾が入滅以後四百三十余歳に及び、此の記文が出現するや、その時の国王・大臣は寺塔を発起し、仏法を願求していること。」とある。

 

また『古事談』には「小野宮右府記」の引用文を記載している。四天王寺別当の桓舜僧都が関白の仰せにより、御廟に参向し事情聴取をした。其の地の住僧が私堂を建てようと整地したが、その夜の夢に「此の地に堂舎を建ててはならない。早く停止しなさい。この傍の地が良い。」とのお告げがあったので、初めの地を止め他所に建立した。今年になって初めの地を整地した時、石の函(はこ)を掘り出した。函は身と蓋があり、針のようなもので銘が刻まれている。「彼の年より今年に及び、四百三十六年云々と。」

 

この「太子御記文」については、法隆寺僧の顕真が著した『聖徳太子伝私記』(1238年著)にも同様のことが書かれているが、『古事談』には書かれていない内容もある。「太子御記文」を発見した僧は忠禅という僧侶であること、天喜2年9月に忠禅が聖徳太子の御廟の中に入り「不可思議な作法」を行ったので、太子の舎利が破損していないかを確かめるために、勅宣(天皇の詔)でもって法隆寺の三興(僧官)康仁が御廟の中に入り三つの棺を拝見したこと、忠禅は法を談じたことが露顕し、康平6年(1063年)に禁獄されたことなどが記載されている。

 

「太子御記文」にある「今年歳次辛巳」とは、推古29年(621年)の辛巳の年で、聖徳太子が薨去した年にあたる。御記文が発見された天喜2年(1054年)は、聖徳太子が薨去してから433年であり、御記文の「吾が入滅以後四百三十余歳に及び、此の記文が出現するや」と全く一致している。余りにも出来すぎた話で、これは偽物であることは明らかだ。

 

四天王寺は「太子御記文」が偽物であるとすぐ見抜けるはずであるが、何故朝廷に奏上したのであろうか。四天王寺には寛弘4年(1007年)に、慈運という僧侶によって金堂から発見された『四天王寺縁起』(国宝)という書物がある。『四天王寺縁起』には「乙卯歳正月八日」の日付と「皇太子仏子勝鬘」の署名があり、手形まで押されてある。『四天王寺縁起』は、推古3年(595年)に聖徳太子自身が書いたことを示しており、人々の関心を集め、当時の権力者の藤原道長が参詣するまでになり、四天王寺の発展に大きく寄与した。『四天王寺縁起』には、「欽明天皇」「敏達天皇」の奈良時代末期から使われた漢風諡号があり、完全な偽書であることは明白だ。このような前科のある四天王寺にとっては、「太子御記文」を偽物と決め付ける訳にはいかなかったのであろう。

 

『古事談』・『太子伝私記』から、私は次のように考える。天喜元年(1053年)に河内国石川郡の磯長谷に私堂を建てた僧忠禅は、近くにある古墳の石室を発見した。石室は磨き上げた切石造りで、三基の棺があることから、忠禅はこの古墳が聖徳太子廟であると悟った。そこで、此の地に聖徳太子の墓前寺を建立しようと、大理石に国王・大臣が寺塔を発起するようにとの銘文を刻んで埋め、翌年の9月に掘り出して、「太子御記文」が出土したと、ことの次第を四天王寺に届け出た。

 

四天王寺から奏上のあつた朝廷は、「太子御記文」については四天王寺に、聖徳太子廟については法隆寺に調べさせた。四天王寺は「太子御記文」を本物とし、法隆寺は古墳を聖徳太子廟と治定した。四天王寺と法隆寺は、忠禅の画策を寺の繁栄のために利用したが、忠禅がのさばることを恐れ、理由をつけて投獄されるようにし向けた。叡福寺が創建されたのは、その後のことである。聖徳太子墓が叡福寺古墳であると比定された年代は、平安時代の中頃のことと考える。


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