61-7.孝徳天皇陵はなぜ円墳に治定されたか? [61.後期古墳・終末期古墳の被葬者を比定する]
「天皇家と蘇我氏の系譜」(Z193)には、継体天皇から天智天皇までの天皇家14代と蘇我稲目から蝦夷・入鹿までの系譜と陵墓の墳形を示している。ただし、崇峻天皇陵は赤坂天王山古墳、斉明天皇陵は牽牛子塚古墳、蘇我稲目は都塚古墳、蘇我馬子は石舞台古墳、聖徳太子は叡福寺北古墳、来目皇子は塚穴古墳と通説に従っている。また、蘇我蝦夷・入鹿の墓は「61-4.小山田・菖蒲池古墳は蘇我蝦夷・入鹿の双墓」に依っている。飛鳥時代の舒明天皇以降の天皇陵は、孝徳天皇以外全て八角墳である。難波豊崎宮に八角殿を造った孝徳天皇の御陵は、八角墳であることが相応しいと思われるが、孝徳天皇陵に治定されている山田上ノ山古墳は円墳である。一方、聖徳太子の父母は二人とも蘇我稲目の孫で、二人の妃も稲目の孫と曽孫であり、蘇我氏と最も関わりの深い人物である。また、聖徳太子は推古天皇の皇太子として、蘇我馬子と共に仏教の興隆に貢献している。これらからすると、聖徳太子墓は方墳であることが相応しいが、聖徳太子墓に治定されている叡福寺北古墳は円墳である。孝徳天皇陵と聖徳太子墓が円墳であることに疑問を持つ。
『書紀』によると孝徳天皇は白雉5年(654年)10月に崩御し、12月に大阪磯長陵に葬られている。孝徳天皇の大阪磯長陵は大阪府南河内郡太子町大字山田にある円墳、山田上ノ山古墳に治定されている。江戸幕末期に文久の修陵(1862年)が行われ、修陵前(荒蕪)と修陵後(成功)の天皇陵の絵図「文久山陵図」が残されている。『文久山陵図』(学生社)から、大阪磯長陵の荒蕪(Z194)と成功(Z195)を引用した。また『陵墓地形図集成』(宮内庁書陵部編)にある孝徳天皇陵の現在の地形図をZ196に示した。これらの3図を見ると、文久の修陵で山頂を利用して、径約35mx高さ約7mの円墳が成形され、孝徳天皇陵(大阪磯長陵)が造られたことが分かる。
『河内国陵墓図』(天保12年:1841年)の大阪磯長陵には、「石棺露頭ノ所高三尺余幅六尺余アリ」とある。確かにZ195には石棺らしきものが露頭しているところが描かれている。石棺と云われているのは、刳抜式の横口石槨の蓋石で、幅1.8mx高さ0.9mであると理解する。奈良県斑鳩町の御坊山3号墳の刳抜式の横口石槨、蓋石は長さ約2.7mx幅約1.6mx高さ約0.9mで、山田上ノ山古墳の蓋石と幅と高さはほぼ同じである。御坊山3号墳は径8mx高さ2.5mの小さな円墳であり、山田上ノ山古墳も現在の円墳よりも、もっと小さな円墳だったと思われる。
表197は、大阪府太子町の磯長谷にある天皇陵・聖徳太子墓の墳丘規模と、平安時代に編纂された延喜式諸陵寮に記載された陵墓の兆域(陵墓域)と守戸(墓守)の戸数を記載している。兆域は町の単位で表わされており、平安時代は1町=107mである。陵墓の治定が確かと思われる仁徳天皇陵(8町x8町)と応神天皇陵(5町x5町)では、兆域の範囲が、前方後円墳の周濠を含めた範囲にほぼ収まっている。天智天皇陵(14町X14町)では、後背の山を含めた広大な地域が兆域に含まれており、現在でもその範囲には「御陵○○」との地名が見られる。
延喜式諸陵寮には、毎年2月10日に陵墓の定例巡検をおこない、兆域の垣溝が損壊すればこれを修理し、さらに検分することなどの規定があり、延喜式諸陵寮で治定された陵墓は、その治定が正しいかどうかは別として、陵墓の兆域は正確に把握されていたと思われる。Z198は磯長谷にある陵墓の兆域を図示したものである。左上隅には応神天皇陵(5町x5町)の兆域を挿入している。これらからすると孝徳天皇陵の兆域は、不自然に大きいことが分かる。現在、孝徳天皇陵と治定されている大阪磯長陵は、延喜式諸陵寮に定めた大阪磯長陵と違っているように思える。
『書紀』は大化の改新の薄葬令において、孝徳天皇が「自分も墳丘を耕作不能の地につくり、代がかわった後にはどこにあるのかわからないようにしたい。」と述べており、王(皇族)以上の墓の規格として、「内(玄室)の長さ九尺(2.7m)、広さ(幅と高さ)五尺(1.5m)、外域は方九尋(一辺約16m)、高さ五尋(9m)、一千人を役し、七日でその工を終わらせる。」と定めている。元禄10年(1697年)の陵墓の探索の時に、『書紀』の「大化の改新の薄葬令」の記述を参考にして、磯長谷の山田の山上にある、横口石槨を持つ小さな円墳を見つけ出し、孝徳天皇の大阪磯長陵と治定し、文久の修陵で現在の形に成形したものであり、延喜式諸陵寮に定めた大阪磯長陵ではないと推察する。それでは、八角墳と考えられる孝徳天皇陵は、磯長谷の何処にあるのであろうか。
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