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61-6.八角墳の源流は高句麗の寺塔 [61.後期古墳・終末期古墳の被葬者を比定する]

天皇陵でみると古墳時代の象徴であった前方後円墳は敏達天皇陵で終わり、飛鳥時代になって推古天皇陵は方墳、舒明天皇陵は八角墳となっている。その後の孝徳天皇陵が円墳であることを除くと、斉明天皇陵・天智天皇陵・天武持統天皇陵と八角墳が造営されている。この八角墳の源流は何処に求められるのであろうか。

 

日本で最初に造られた寺院である法興寺(飛鳥寺)は、発掘調査の結果伽藍配置は、門・塔・金堂が一直線にならぶ四天王寺式(百済様式)ではなく、高句麗の清岩里廃寺に見られる一塔三金堂式の寺址であった。崇峻元年(588年)に法興寺を建築したのは、百済から来た寺院建築の工人であり、高句麗様式の伽藍配置を採用することはない。推古4年(596年)に法興寺が完成したときには、飛鳥寺は門・塔・金堂が一直線にならぶ百済様式の寺院であったと思える。

 

推古3年に高麗(高句麗)の僧・慧慈が来朝し聖徳太子の仏教の師となっている。推古13年(605年)には高麗の大興王(嬰陽王)が日本国の天皇が仏像を造ることを聞いて黄金300両を献上している。翌年には鞍作鳥が造った丈六の仏像が法興寺の金堂に納められた。このとき東西の金堂が増築され、一塔三金堂式になったのではないかと考える。慧慈は推古23年に帰国し、推古33年(625年)には高麗王から貢上された僧恵灌が来朝し僧正に任じられている。推古天皇は推古36年に崩御され舒明天皇が即位されたが、恵灌は引き続き僧正を勤めたのであろう。推古朝・舒明朝は高句麗の百済文化のみならず高句麗文化の影響を受けていた。

 

高句麗の長寿王は427年に都を平壌に遷都するが、平壌前期時代(427年~588年)の王城と見られる清岩里土城(平壌の北東郊外)のなかにある清岩里廃寺跡から八角建物址が検出された。この八角建物址は塔址であり、八角建物址の北・東・西に金堂と思われる建物址が検出され、清岩里廃寺跡は一塔三金堂式の寺址であると判った。この寺址は498年に創建されたとされる金剛寺にあてられている。清岩里廃寺跡の東南2kmにある上五里廃寺跡からも八角建物址と東西に金堂と思われる方形の建物址を検出し、北にも金堂の址があると想定されている。清岩里廃寺跡の南南東20kmにある定陵寺跡からも八角建物址が検出されている。八角建物である中央の塔を中心に東と西、そして北側に金堂を配置する1塔3金堂式とよばれる伽藍配置である。定陵寺の年代は色々議論があるが、清岩里廃寺より後の6世紀前半以降とみられている。

 

Z191.飛鳥寺と清岩里廃寺.png

舒明天皇陵(段ノ塚古墳)が八角墳となった源流は高句麗で建造された八角形の塔にあると考える。高句麗で建造された八角形の塔について、舒明天皇や皇后の宝皇女は恵灌から聞いていたのであろう。舒明天皇が崩御すると皇后の宝皇女が皇極天皇(後の斉明天皇)に即位された。乙巳の変で蘇我入鹿が刺殺され蝦夷が自害すると、皇極天皇は譲位し、弟の軽皇子が即位して孝徳天皇となり、皇極4年を改め大化元年(645年)と改元し、都を難波長柄豊崎に移した。難波豊崎宮(前期難波宮)の造営が完成したのは白雉3年(652年)である。

 

Z192.前期難波宮.pngこの前期難波宮が大阪城外堀の南西部に接した場所にあることが、1950年代に始まった発掘調査で明らかになってきた。宮域は東西・南北とも650mで、それまでにない大規模な王宮である。図Z192は発掘調査の成果をもとにして作成された前期難波宮のCG復元図(『東アジアに開かれた古代王宮・難波宮』新泉社、引用)である。前期難波宮は唐尺を採用し、ほぼ左右対称の殿舎配置をとる点で極めて中国的(唐風)な色彩を帯びている宮である。内裏南門の左右には回廊で囲まれた八角殿が建っている。八角形の建物と言えば法隆寺の夢殿が有名であるが、夢殿の創建は天平11年(739年)であり、難波宮の八角殿よりずっと後のことだ。難波豊崎宮に八角殿が建ったのは、皇祖母尊と呼ばれた皇極天皇の進言かもしれない。孝徳天皇は白雉5年(654年)に崩御され、大阪磯長陵(大阪府太子町)に葬られた。大阪磯長陵は宮内庁により、大阪府太子町にある山田上ノ山古墳(円墳)に治定されている。難波豊崎宮に八角殿を建てた孝徳天皇の御陵こそ、八角墳であることが相応しい。大阪磯長陵が円墳であることに疑問を感じる。


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