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60-7.前方後円墳終焉後の大型の方墳と円墳 [60.古墳時代の終焉]

畿内において、前方後円墳の築造が終焉を向かえ後に、大型の方墳と円墳が造営されている。大和朝廷の政権中枢の王墓でみると、587年に崩御した用明天皇の河内磯長原陵(春日向山古墳)は65mx60mの方墳、621年(622年?)に亡くなった聖徳太子墓(叡福寺北古墳)は直径54mの円墳、628年に亡くなった蘇我馬子の墓(石舞台古墳)は一辺50mの方墳、629年に崩御された推古天皇の磯長山田陵(山田高塚古墳)は59mx55mの方墳である。大型方墳は蘇我氏と関係があるのではないかと考えられている。

 

奈良県広陵町の牧野古墳も直径60mの大型円墳である。牧野古墳の墳丘には埴輪は立て並べていないが、玄室内や石室全面から形埴輪片や円筒埴輪片が出土している。前方後円墳の終焉と共に消滅した埴輪の名残であろう。出土した須恵器の型式はTK209であり、前方後円墳終焉直後、600年前後の古墳と言える。牧野古墳は蘇我氏と姻戚関係を持たない押坂彦人大兄(敏達天皇第一皇子、舒明天皇の父)の墓と考えられている。押坂彦人大兄は、『書紀』では用明2年(587年)に登場するが、それ以後は記載されていない。前方後円墳終焉後の大型円墳には天理市の塚穴山古墳(直径70m)、桜井市のムネサカ1号墳(直径60m)がある。塚穴山古墳は物部氏、ムネサカ1号墳は中臣氏と関係すると考えられている。

 

畿内において前方後円墳の築造が終焉を向かえ、大型の方墳や円墳が造営されている時期に、多くの寺院が造営されている。最初に建立されたのが飛鳥寺(法興寺)で、崇峻元年(588年)に造り始め、落成は推古4年(596年)である。『書紀』推古32年(624年)には、寺が46ヶ所あったと記載している。近つ飛鳥博物館の『考古学からみた推古朝』「東アジアからみた推古朝の寺院」によると、推古朝の寺院遺跡から出土する瓦の文様は素弁蓮華文であり、飛鳥寺式(588年~610年)・奥山廃寺式(620年~630年)・豊浦廃寺式(620年~630年)に分類されている。これらの文様の瓦が出土する寺院遺跡は、大和24・河内12・山背7・和泉4・摂津1・近江2・武蔵1の51ヶ所あるとある。『書紀』の記す、寺46ヶ所も史実であることが分る。

 

Z166.東国の方墳.png古墳後期後半の前方後円墳の数が最も多い千葉県(上総・下総)では、概ねTK209古(580年~600年)の時代に前方後円墳の築造が終焉を向かえている。上総の最後の前方後円墳は長須賀古墳群(木更津市)にある金鈴塚古墳(墳長90m)である。金鈴塚古墳の南200mにある松面古墳は一辺44mの方墳で、出土遺物より金鈴塚古墳の後に築かれた7世紀前半の古墳と見られている。上総の板附古墳群では最後の前方後円墳が不動古墳(墳長63m)で、近くに不動古墳に続いて築造された7世紀初頭の一辺60mの駄ノ塚古墳がある。

 

下総の最後の前方後円墳は竜角寺古墳群(印旛郡栄町)にある浅間山古墳(墳長78m)である。浅間山古墳の南東1kmにある竜角寺岩屋古墳は一辺78mの大形方墳で、砂岩の切石積み横穴石室をもっており、浅間山古墳に続いて築造されたと見られている。浅間山古墳の南東にある龍角寺からは、三重圏線文縁単弁蓮華文軒丸瓦が出土しており、大和の山田寺で649年まで造られた瓦を祖型としており、創建は650年~660年と見られている。本尊の薬師如来坐像は山田寺の本尊と同様の作風を持っている。

 

下総で山田寺式(子葉を持つ単弁式)文様の瓦が出土したのは、龍角寺の他に長熊廃寺(佐倉市)、木下別所廃寺(印西市)、名木廃寺(成田市)、龍正院(成田市)、木内廃寺(香取市)、 龍尾寺(八日市場市)があり、上総では法興寺(夷隅郡岬町)、今福廃寺(市原市)、二日市場廃寺(市原市)がある。上総・下総で寺院が造られたのは650年以降のことであり、TK209古(580年~600年)の時代まで多くの前方後円墳の築造が行われたのであろう。

 

群馬県前橋市総社町には総社古墳群があり、最後の前方後円墳は6世紀末の築造といわれている二子山古墳である。二子山古墳に続いて3基の大型方墳が、愛宕山古墳・宝塔山古墳・蛇穴古墳の順で築造されている。7世紀前半の築造された愛宕山古墳(一辺56m)の横穴式石室は自然石で出来ているが、7世紀第3四半期の宝塔山古墳(一辺60m)と7世紀第4四半期の蛇穴古墳(一辺39m)の横穴式石室は、安山岩の切石積みで出来ている。

 

宝塔山古墳・蛇穴古墳の南西1kmにある山王廃寺は7世紀後半に創建された群馬県(上野)最古の寺院の一つである。山王廃寺は塔心礎や石製鴟尾、根巻石が残り、「放光寺」という文字を刻んだ瓦が出土したことから、山ノ上碑(高崎市山名町)に記された「放光寺」が山王廃寺であることが分かった。山ノ上碑はその銘文より681年に建立されたことが分っており、山王廃寺の創建は670年代であると考えられている。山王廃寺の創建瓦は山田寺式系の軒丸瓦で663年以降のものと見られており、山ノ上碑の銘文より想定される創建と合致している。宝塔山古墳・蛇穴古墳の築造時期と山王廃寺の造営時期が重なっていることから、寺院を造った豪族の墓が総社古墳群であると考えられている。前方後円墳終焉後の大型方墳の登場は、蘇我氏との関わり、仏教・寺院の関わりがあると考えられている。


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